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漱石門下だった文人・内田百閒を身近なものに感じさせてくれる本。
久世光彦(1935-2006/享年70)
『百閒先生 月を踏む』 ['06年/朝日新聞社] 鈴木清順 監督(原作:内田百閒)「ツィゴイネルワイゼン」
久世光彦(1935‐2006)の最後の長編小説(未完)で、内田百閒への著者の想いがひしひしと感じられます。
係累を絶ち小田原でのうたた寝ばかりしていうような生活の中、時に近所の寺の和尚や作家風の人物と語らい、またその合間に幻想的な短篇小説を書いている百閒先生を、その世話役である小坊主・果林の目から描いています。
百閒のちょっととぼけた人柄や、自らが見た夢を織り込む創作の秘密が窺えて楽しく、そうして出来上がった作品が章ごとに出てきますが、これらは実は久世氏の手によるもので、その意味ではかなり実験的な試みです。
『女神(じょしん) 』('03年/新潮社)で大岡昇平の『花影』の向こうを張って同じモデル(坂本睦子)に肉薄しながらも、敢えてドラマ的要素をふんだんに盛り込んだスタイルの発展形を、この作品に見た思いがしました。
ただし個人的にはこの小説は、地の文の方が良く感じられ、果林を通して百閒先生の実作に解説や突っ込みを入れているのが楽しいけれど、作中小説は「金魚鉢」などは何とか百閒小説という感じがしますが、他は修辞を凝らしすぎているものが多い気もし、作中作にまで蘊蓄を持ち込んでいるのもどうかなという気がしました。
坪内祐三氏の解説が興味深く、百閒が住んだことのないはずの小田原を舞台にしている理由の1つに、鈴木清順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」('80年/シネマ・プラセット)のイメージが久世氏にあったのではないかとしています(確かに映画の中に砂浜のシーンがあった)。
「ツィゴイネルワイゼン」は黒澤明監督の「影武者」('80年/東宝)を押さえてその年のキネ旬ベストワンを獲得した作品ですが、実際いい映画でした。大楠道代が「桃は腐りかけているときがおいしいの」と言いながら、水蜜桃を舌で妖しく舐めまわすシーンが印象的であり、またこの映画に漂う死のイメージを象徴していた場面でもありました。
『百閒先生 月を踏む』の時代設定は、雑誌連載時は昭和25年(百閒61歳)となっていて、この中に映画「ツィゴイネルワイゼン」の原作である小説「サラサーテの盤」を着想する場面もありますが、実際には昭和23年に「サラサーテの盤」は発表されていて、これを作者の「生前の意向」を受け解説を担当した坪内氏は、昭和10年生まれの久世氏が15歳の果林に自分を重ねたとき、逆算的に昭和25年にならざるを得なかったとしています。ところが、同じく作者の「生前の意向」を受けたという編集部が、(その意向により)単行本で昭和22年(百閒58歳)という設定に直したのだと言っていて、このあたりは、作者の急逝による混乱を窺わせます(もし編集者の言うのが事実ならば、熱弁をふるった坪内氏が気の毒)。
細部での齟齬はありますが、漱石門下生でありながら昭和の高度経済成長期まで生きた文人を、ごく身近な存在として感じさせてくれる本という意味ではいいのではないでしょうか。
「ツィゴイネルワイゼン」●制作年:1980年●監督:鈴木清順●製作:荒戸源次郎●脚本:田中陽造●撮影:永塚一栄●音楽:河内紀●原作:内田百閒 (「サラサーテの盤」(ノンクレジット))●時間:144分●出演:原田芳雄/大谷直子/大楠道代/藤田敏八/真喜志きさ子/麿赤児/山谷初男/玉川伊佐男/樹木希林/佐々木すみ江/木村有希/玉寄長政/夢村四郎/江の島ルビ/中沢青六/相倉久人●公開:1980/04●配給:シネマ・プラセット●最初に観た場所:有楽町・日劇文化(81-02-09)(評価:★★★★) 日劇文化(1935年12月30日、日劇ビル地下にオープン、1955年8月12日改装。ATG映画専門上映館。1981(昭和56)年2月22日閉館)のラストショー上映作品「ツィゴイネルワイゼン」
藤田敏八に演技をつける鈴木清順監督
【2009年文庫化[朝日文庫]】