2008年10月 Archives

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パルプマガジン作家らしい作品。"レナード・タッチ"より、むしろストーリー自体が楽しめる。

五万二千ドルの罠 ノヴェルズ.jpg 52 pickup.jpg 五万二千ドルの罠 エルモア・レナード.jpg     キャット・チェイサー.jpg stick.jpg
五万二千ドルの罠 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』/「デス・ポイント/非情の罠(52 PICK-UP)」輸入版DVDカバー/『五万二千ドルの罠 (1979年) (ハヤカワ・ノヴェルズ) 』/映画「キャット・チェイサー」チラシ/「スティック」ペーパーバック

Fifty-Two Pickup.jpgElmore Leonard.jpg

 1974年に発表されたアメリカの人気ハードボイルド作家、エルモア・レナード Elmore Leonard(1925‐) のベストセラー作品で原題は"52 Pickup"

 鉄鋼会社経営の中年実業家の主人公は、浮気現場をビデオに撮られて犯人グループから恐喝され、妻も真実を知って困惑するが、犯人を見つけるため夫に協力する。浮気相手の友人から得た情報で、犯人はポルノ映画館支配人の男ら3人とわかり、主人公は犯人らに年間5万2000ドル払うと申し出て、彼らの仲間割れを図る―。

 エルモア・レナードは、先に『キャット・チェイサー(Cat Chaser 1982)』('86年/サンケイ文庫)や『スティック(Stick 1983)』('86年/文春文庫)を読んで、ストーリーよりも、所謂"レナード・タッチ"と言われるハードボイルドな文体やフロリダなどを舞台にしたスタイリッシュな雰囲気に惹かれました(とりわけ『スティック』の高見浩氏の訳は鮮烈。この人、ヘミングウェイなども翻訳している)。

 それらに比べると、本書は文体もさることながら、むしろストーリー展開自体が楽しめ、読んだ後も印象に残る―、と言っても、エルモア・レナード自身が西部劇の脚本家からスタートして、パルプマガジンで支持を得てきた人なので、話は大いに通俗的であり、また、その展開にはかなりハチャメチャな部分はありますが...(主人公は戦争で戦闘機パイロットだった時に、敵機を撃墜しただけでなく、誤襲してきた味方機まで撃墜したというかなり血の気の多い人物という設定)。
 映画「レザボア・ドッグス」「パルプ・フィクション」の監督クエンティン・タランティーノが敬愛する作家であるというのはよくわかります。

 「5万2千ドル」ぐらいでこんな殺し合いになるのかという気もしますが、70年代初頭は1ドル=360円だったわけで、しかも主人公が提示したのは、それを「毎年」支払うということだったことを考えると、そう不自然な設定ではないかも(どこから5万2千ドルという数字が出てくるのかと思ったら、1週千ドルというわけだ)。

デス・ポイント 歌舞伎町シネマ2.jpg レナード作品は幾つか映画化されていますが、『スティック』はバート・レイノルズ主演で'85年に映画化されているものの、原作を捻じ曲げて却って拙い仕上がりになっているとの評だったので未見、ピーター・ウェラー、ケリー・マクギリス主演の「キャット・チェイサー」('86年)も映画館では観る機会がなかったのですが、テレビで途中から観て、まあまあこんなものかなと。

52 PICK-UP m.jpg 『五万二千ドルの罠』は、映画化された作品('86年、邦題 「デス・ポイント/非情の罠」)を、B級映画専門の準ロード館(歌舞伎町シネマ2)で観て、かなり原作に忠実に作られているように思いました。

 '08年に亡くなったロイ・シャイダーの主演で、主人公の粗暴な面と脅迫に脅える面が両方出ていて、ロイ・シャイダーは、「ブルーサンダー」('83年)でベトナム帰りの攻撃ヘリコプターのやたら砲弾を撃ちまくるパイロットを演じていましたが、この作品では、「ジョーズ」('75年)の警察署長役に繋がる(サメならぬ)脅迫者に脅えた感じの演技がハマっているような気がし、但しその分、原作よりもやや線の細い人物造型になったように思います。


ヒューマックスパビリオン 新宿歌舞伎町.jpg「デス・ポイント/非情の罠」●原題:52 PICK-UP●制作年:1986年●制作国:アメリカ●監督:ジョン・フランケンハイマー●音楽:ゲイリー・チャン●原作:エルモア・レナード「五万二千ドルの罠」●時間:112分●出演:ロイ・シャイダー/アン・マーグレット/C・ウィリアムズ3世●日本公開:1987/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:歌舞伎町シネマ2 (88-01-30) (評価★★★)●併映:「第27囚人戦車部隊」(ゴードン・ヘスラー)

歌舞伎町シネマ1・歌舞伎町シネマ2 1985年、コマ劇場左(グランドオヲデオンビル隣り)「新宿ジョイパックビル」(現「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)2Fにオープン→新宿ジョイシネマ3・新宿ジョイシネマ4。1997(平成9)年頃閉館。

 【1979年ノヴェルズ化〔ハヤカワ・ノヴェルズ]/1986年文庫化〔ハヤカワ・ミステリ文庫〕】

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金原瑞人の翻訳も悪くはないが、個人的には旧訳(大久保康雄)の方が好み。

武器よさらば (新潮文庫).jpg 『武器よさらば (1955年) (新潮文庫)』 武器よさらば(上).gif 武器よさらば(下).gif 『武器よさらば(上) (光文社古典新訳文庫 Aヘ 1-1)』 『武器よさらば(下) (光文社古典新訳文庫 Aヘ 1-2)

武器よさらば 映画パンフ (1960年リバイバル公開時).jpg 1929年に発表されたヘミングウェイの小説で、米国人イタリア兵フレデリック・ヘンリーと英国人看護婦キャサリン・バークレイとの恋を描いた小説(恋人をボートに乗せて湖を渡りスイスに逃れるなんて、かなりロマンチック)であるとともに、第一次世界大戦を背景にした戦争文学(閉塞状況のイタリア戦線が描かれている)として、同年に発表されたレマルクの『西部戦線異状なし』と並ぶものとされています。

 また、ロック・ハドソン、ジェニファー・ジョーンズ主演の映画化作品('57年/米)も、へミングウェイ原作のものでは、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの「誰が為に鐘は鳴る」('43年/米)ほどではないですがよく知られています(ゲーリー・クーパーは'39年の同原作「戦場よさらば」にも主演)。
ロック・ハドソン版「武器よさらば」映画パンフ (1960年リバイバル公開時)

 以前に読んだのは大久保康雄(1905‐1987/享年81)訳の新潮文庫のもの(向井潤吉のカバー画が何となく「風と共に去りぬ」みたいな感じなのだが...)で、ここのところ高見浩氏の新訳でヘミングウェイ作品を何冊か読んだので、この作品も高見訳で新潮文庫にあるものの、今度は、この20年間余りで300作以上もの翻訳をこなしてきているという金原瑞人氏の訳で読んでみました。
 そうしたら、金原訳、読みやすいことには読みやすいけれど、う〜ん、『武器よさらば』って、こんな文字がスカスカな感じだったかなあ。でも、今の若い読者には、この方が受け入れるのかもしれないけれど。

「翻訳文学のいま」金原瑞人氏・角田光代氏.jpg 作家の角田光代氏が金原氏との対談(21世紀活字文化プロジェクト・新!読書生活「翻訳文学のいま」)で、「大久保訳、高見訳とも主人公の一人称が〈ぼく〉であるのに、金原訳では〈おれ〉だったので、すごく印象的だった」と述べていましたが、金原氏は、俗で荒っぽい軍隊の中にいる主人公が〈ぼく〉では違和感があったため〈おれ〉にしたとのこと。
 続けて言うには、「ところが困ったことがあって、第1次世界大戦当時はある意味田舎だったアメリカ人の主人公が、世界に冠たる大英帝国の女性に恋をする。〈おれ〉とは言わないだろうなと。結局、この女性に対する時だけは主語はすべて削ってしまった」と。

 なるほど、全体にハードボイルドな雰囲気で、一方、恋人同士の会話部分は、主語(〈おれ〉)及び「〜と言った」などという記述部分が略されていて、映画の字幕を読んでいるような感じも。

 角田氏に異議を唱えるわけではないですが、大久保訳は、記述部分における一人称は〈私〉、会話部分では、軍隊仲間の間では〈おれ〉、初めて会う人には〈私〉、女性に対しては〈ぼく〉と使い分けていて、こうした使い分けは普通に行われるものであることからすれば、こっちの方がむしろ自然ではないだろうかという気も。
 軍隊言葉にちょっと古風な訳があったり、主人公の恋人の名前が「キャザリン」と濁っていたりしますが、個人的には大久保訳の方が好きです。

 翻訳の話になってしまいましたが、大久保訳の新潮文庫解説では、主人公の軍隊からの離脱を、戦争一般とそこに生きる人々を支える抽象的大義を捨てた「単独講和」であるという捉え方をしていて、主人公は状況一般の中に生きる目的を発見する代わりに、血肉をそなえたただ一人の現実の人間を選んだのだとあります。

 金原訳も悪くないですが、やはり、大久保訳の方が、こうした解釈に相応しい格調を備えているし、情感の描出でも優れているような気がします。あくまでも好みの問題ですが。

 【1955年文庫化[新潮文庫(大久保康雄:訳)]/1957年再文庫化[岩波文庫(上・下)]/1957年再文庫化[角川文庫]/1978年再文庫化[旺文社文庫]/2006再文庫化[新潮文庫(高見浩:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫(上・下)(金原瑞人:訳)]】

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「CSI」や「NCIS」などの科学捜査ドラマの先駆けでもあった。

証拠死体.jpg 『証拠死体 (講談社文庫)』['92年] csi.jpg NCIS.jpg

Body of Evidence.jpg 1991年に発表されたパトリシア・コーンウェルの「検屍官ケイ・スカーペッタ・シリーズ」の第2弾(原題:Body of Evidence)。
 90年代の米国ミステリ界を最も席巻した作家をベストセラー量産度から言えば、『法律事務所』('91年)、『ペリカン文書』('92年)、『依頼人』('93年)などで知られるジョン・グリシャムですが、女流ではこのパトリシア・コーンウェルでしょう。

 このシリーズは15作ほど刊行されていますが、シリーズの最初の頃のものの方に傑作が多いような気がし、この第2作『証拠死体』は、第1作でシリーズの主要登場人物の紹介も終わっているので、ケイが惨殺された美人の売れっ子作家の死体に検屍官として向き合うという、事件の核心部分からいきなり入り、その後もテンポがいい。

 『検屍官』のところで、このシリーズが、女性が主役として活躍するクライム・ドラマ(「Law & Order:性犯罪特捜班」や「BONES」)の先駆となったと書きましたが、本書では、前作以上に科学捜査の実態が克明に描かれていて、こうした描き方は、「CSI:科学捜査班」(「CSI:マイアミ」「CSI:NY」といったスピンアウトもある)や「NCIS-ネイビー犯罪捜査班」(これ自体が「犯罪捜査官ネイビーファイル」のスピンアウト)などの先駆でもあったと言えるのではないかと思いました。

 第一、ケイの勤務する「検屍局」が「犯罪科学研究所」と同じビルにあり、そこには例えば「繊維班」などがあって、犯行現場に残った繊維を採取してその組成から犯行に関わる衣服や絨毯を特定する、そのやり方などは極めてシステマティック。
ポーリー・ペレット.bmp 「NCIS」の女性分析官アビー(ポーリー・ペレット)などがやっている科学分析に比べれば、本書にある科学分析は、今でこそ"原始的"な類なのかも知れませんが、それまでは、観察眼の鋭い探偵や刑事が出てきて、「この糸は何だろう」みたいに偶然見つけた微小残留物から事件の読み解きが始まるといった展開ばかりだったので、こうして残留物を収集し分析することがシステムとして行われている様は、当時としては目新しかったです。

 事件の展開は複雑ですが、大風呂敷を拡げてたたみきれなくなっているようなシリーズ後半の作品に比べると、本作は一応しっかり"たたんでいる"し、何よりもケイと刑事マリーノの会話が楽しめました。
 第1作ではセクハラ気味なところもあったマリーノだけど、この作品では、ケイの庇護者的立場というのがかなりはっきり出ていたように思います(既に、第1作でケイを助け、"いい人"であることは読者にはわかっているわけだが)。

CSI科学捜査班 dvd.jpgNCIS ネイビー犯罪捜査班 dvd.jpg「CSI:科学捜査班」CSI: Crime Scene Investigation (CBS 2000/10~ ) ○日本での放映チャネル::WOWOW(2002~)/AXN/テレビ東京など

「NCIS~ネイビー犯罪捜査班」Navy NCIS: Naval Criminal Investigative Service (CBS 2003~ )○日本での放映チャネル:FOXチャンネル
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オリジナルな着想は素晴らしいが、「掟破り」が瑕疵となり、映画に劣る。

気ちがい〔サイコ〕.png 『気ちがい (1960年) (世界ミステリシリーズ)』  サイコ  ロバート・ブロック.jpg サイコ ハヤカワ文庫.jpg 『サイコ (ハヤカワ文庫 NV 284)』 ['82年旧版/新装版]

Psycho.jpg 1959年発表のアメリカ人作家ロバート・ブロック Robert Bloch(1917‐1994/享年77)の『気ちがい(Psycho)』('60年4月/ハヤカワ・ミステリ)は、アルフレッド・ヒッチコック監督(1899‐1980/享年80)の映画「サイコ」('62年)の原作として有名になり、同じ福島正実訳のものがハヤカワ文庫に納められたとき('82年5月)に、『サイコ』という表題に改変されています(この小説のお陰で、映画の字幕などで「この"サイコ野郎"め」とか使われるようになった)。

 ロバート・ブロックは、エド・ケインという男が起こした実際の犯罪事件をヒントにこの作品を書いており、父と兄に続いて母親を亡くしたエドは、とりわけ絶対的な影響力を占めていた母親が死んでから、オカルトや解剖、屍体への性的執着、カニバリズムに耽溺、1957年に女性殺害容疑で逮捕されて家宅捜索を受けた際に、自宅から全部で15人の女性の死体が見つかりましたが、死体はどれも細かく解体されており、その一部は上着や食器・家具に加工され、また一部は食用として保存されていたといいます(裁判では精神障害(性的サイコパス)として無罪に)。

 小説の主人公ノーマンの人格造型に、今で言う"解離性障害"のようなものを持ち込んだのは作者のオリジナルだと思われ、その着想は素晴らしいものの、「ノーマンは母さんを面と向かって見られなかった」とか「彼は母さんのスカートに頭をうずめ、しゃくりあげながら、話しはじめた」、「母さんは窓のほうに行くと、降りしきる雨足をじっと眺めた」などといった表現は、ミステリとしては所謂「掟破り」になるかと思われます。

映画術 フランソワ トリュフォー.jpg 映画監督のフランソワ・トリュフォーもこの点を批判していて、『映画術―ヒッチコック・トリュフォー』('81年/晶文社)におけるヒッチコックへのインタビューにおいて、映画という手法において、こうした"禁じ手"を使わずに原作を映像化したヒッチコックの技法を讃えています。
ユージュアル・サスペクツ.jpg
 例えば、アカデミー賞脚本賞受賞映画の「ユージュアル・サスペクツ」('95年/米)なども、傑作ミステリ映画と言われながらも、途中で実在しない人物を映像化するという"禁じ手"を用いて自ら瑕疵を生じせしめているように思います。
 コカインの密輸船が爆破され大量のコカインと金が消えた事件の黒幕と目される大物ギャング、カイザー・ソゼとは何者なのかを巡る心理サスペンスで、ラストもさることながら、その少し前の尋問場面で、アッと言わせる、確かに傑作でした。
 本来なら星5つ乃至4つ半ぐらい献上したい、にもかかわらず、この"禁じ手"を用いていることで、個人的には星1つ分は減らさざるを得ない...。   「ユージュアル・サスペクツ [DVD]

Psycho (1960).jpg 『映画術』ではこの外に、「サイコ」においてヒッチコックがいかに緻密な計算の上に、セオリー通りの手法やセオリーを外れた実験的手法を用いて効果を上げているかを、トリュフォーが本人から巧みに聞き出していて、例えば後者(セオリー外)で言えば、最初の被害者にジャネット・リーを起用した点などもそうです(ヒッチコック映画で女優がブラジャー姿で出てくるのはこの作品だけ。因みにジャネット・リーは、ポスターを見ると、特別出演のような扱いに)。

 自らがこの作品の監督だとして、普通は映画の半ばで殺される女性に有名女優を用いようとは思わないでしょう。物語の最後まで観客の興味を牽引していくと思われた主演クラスの女優が演じる役を途中で被害者にしてしまい、観客の感情移入に見事に肩透かしを食わせ、アンソニー・パーキンスが演じる孤独な青年に一気に感情移入の対象を移行させる―やはり、こうした計算され尽くした「映画術」から見ても、ヒッチコックの映画監督としての才能が原作の名を高めたというべきでしょう。

 ヒッチコックがこの小説の映画化に踏み切った理由は、ただ1つ、「シャワーを浴びていた女性が突然に殺されるという悲惨さ」にショックを受けたからとのことで(匿名で、極めて安値で原作の映画化権を買い取っている)、45秒のシャワーシーンに200カット詰めみ7日間もかけて撮ったという話は有名。
 但し、このシーンの撮影の際にアンソニー・パーキンスは舞台出演中で撮影現場にはいなかったことを、映画公開の20年後に告白しています。
                                                     "Psycho" (1960) poster
サイコ1.jpg その外にも、ジャネット・リーの手と肩と顔だけが本物で、あとは全てスタンドインのモデルを使っているとか、エロティックかつ残酷な場面という印象があるにも関わらず、女性の乳房さえ映っておらず、ナイフが肉に刺さるショットも無い(そうした印象は全てモンタージュ効果によるものである)とか、このシーンだけでもネタは尽きません。

 「サイコ」●原題:PSYCHO●制作年:1960年●制作国:アメリカ●監督・製作:アルフレッド・ヒッチコック●音楽:バーナード・ハーマン●原作:ロバート・ブロック「気ちがい(サイコ)」●時間:108分●出演:アンソニー・パーキンス/ジャネット・リー/ベラ・マイルズ/マーチン・バルサン/ジャン・ギャヴィン●日本公開:1960/09●配給:パラマウント (評価★★★★)

「ユージュアル・サスペクツ」●原題:THE USUAL SUSPECTS●制作年:1995年●制作国:アメリカ●監督:ブライアン・シンガー●製作:ハンス・ブロックマン他●脚本:クリストファー・マッカリー●撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル●音楽:ジョン・オットマン●時間:106分●出演:ケヴィン・スペイシー/ガブリエル・バーン/スティーヴン・ボールドウィン/ベニチオ・デル・トロ ●日本公開:1996/04●配給:アスミック (評価★★★☆)

 【1982年文庫化[ハヤカワ文庫 NV (『サイコ』(福島正実訳))]/1999年再文庫化[創元推理文庫(『サイコ』(夏来健次訳))]】

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やはり選挙モノはミステリ並みに面白い。女性大統領はまだ先?

ロスノフスキ家の娘.jpgロスノフスキ家の娘 (上) (新潮文庫)』『ロスノフスキ家の娘 (下) (新潮文庫)

The Prodigal Daughter.jpg ポーランド移民からホテル王になったケインの娘フロレンティナが恋し合ったリチャードという青年が、実は父の宿敵である銀行家ウイリアム・ケインの息子で、親たちは子供たちの結婚を許さず、反対を押し切って結婚した彼女は、夫の助けでビジネスに成功する。その後、旧友の勧めで上院議員に立候補し、やがて米国初の女性大統領を目指す闘いに臨む('96年の大統領選という想定)。

 1982年夏に発表されたジェフリー・アーチャーの4番目の長編(原題"The Prodigal Daughter"は「放蕩娘」の意)で、第3作『ケインとアベル』('79年)の続編。第5作『めざせダウニング街10番地』('84年)までミステリをやや離れた経済・政治ドラマといった作風ですが、やはり選挙モノはミステリ並みに面白いです(特に、英国上下両院での議員経験がある作者が書くと)。

クリントン上院議員(右から3人目)の選挙事務所は、かつて民主党の副大統領候補になった経歴を持つジェラルディン・フェラーロ氏(右).jpg フロレンティナの幼少期から実際のアメリカの歴史を辿っていて、彼女が上院議員をしている時期はカーター、レーガン政権の時代になっていますが、現実には、本作刊行の2年後の'84年の大統領選挙の時に、民主党がフェラーロという女性「副」大統領候補(姓と名の違いはあるが"フロレンティナ"と語感が似ているので印象深かった)を指名したものの、大統領戦(モンデールvs.レーガン)そのもので共和党に惨敗して、女性の副大統領は誕生しませんでした(結局、副大統領になるかどうかは大統領選次第ということ)。

 ヒラリー・クリントンとかつての民主党副大統領候補フェラーロ(右端) [ロイター/2008]

Sarah Palin.jpg その後、'08年の大統領選の民主党指名争いにヒラリー・クリントンが立ちましたがオバマに破れ、一方、共和党は党として初の女性副大統領候補サラ・ペイリンを立てているというのが現況('08年10月)。この間に、フェラーロ(24年前の)副大統領候補はヒラリー候補の政治資金担当顧問をしていたものの、自身の「オバマ氏が仮に白人だったら現在の地位にはいられなかった」との発言が人種差別であるとの批判を受けて辞任するという出来事もあって、いろいろあるなあ、大統領選って、という感じですが、副大統領はともかく、女性大統領はまだ先になりそうです。
共和党副大統領候補サラ・ペイリン [ロイター/2008]     

 一応、単独の読み物としても楽しめますが、前作を読んだ方が良いにこしたことはなく、親同士の確執の深さが前提にないと、ホームドラマに出てくる単に頑固な親父とあまり変わらない印象になってしまうかも。
 前半部はフロレンティナの成育史(家庭教師や学校での教育等)が詳しく描かれていて、やや冗長感もありましたが、仮に大統領になる女性がいるとしたらこんな感じで育っていくのかなと思わせる面もあり、それなりに面白かったです(前提として大富豪の娘であるというのがあるが)。

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作品としては傑作。ゴシップ的に読むとヘミングウェイは嫌なヤツ(?)。

日はまた昇る.jpg 『日はまた昇る』 〔'00年〕 日はまた昇る (新潮文庫).bmp 新潮文庫 〔'03年〕 日はまた昇る 講談社英語文庫.jpg 講談社英語文庫 ['07年]

大久保康雄 日はまた昇る (新潮文庫).jpg  1926年に発表された長編『日はまた昇る』"The Sun Also Rises"は、パリ時代のへミングウェイの最高傑作と謳われているだけでなく、"ロスト・ジェネレーション"文学の代表作ともされていますが、大久保康雄(1905-1987)訳('55年/新潮社文庫)と比べて高見浩氏の新訳は大変読みやすく(大久保康雄訳も今読んでもそれほど古さは感じられないのだが)、結局、大久保訳と入れ替わりで本書は新潮文庫に加わりました(それ以外に文庫となっているものでは谷口睦男(1918-1988)訳('58年/岩波文庫)、佐伯彰一訳('78年/集英社文庫)などがある)。

新潮文庫(大久保康雄:訳) ['55年]

 それでも、戦場で性機能を失った主人公のジェイクと周辺の若手作家や女友達との絡みが描かれている前半部分がややごちゃごちゃしているように感じられるのは、この作品がもともと最初短編として構想されたものに加筆して長編に改編したものであるからでしょうか。
  
 とは言え、多くの芸術家の卵が集った当時のパリの雰囲気をよく伝えているし(ヘンリー・ミラーの『南回帰線』(1934年)を思い出した)、後半、こうした仲間らとスペインへ行き、パンプローナの闘牛やフェイスタ(サン・フェルミン祭)に興じる中、恋の鞘当てを繰り広げる様は、読んでいても面白い!

 祭の闘牛の描写は、作家自身が何かに憑かれたように書いている印象を受け(ヘミングウェイは1922年から5年連続この祭りに通った)、こうした表現トーンの変調はまだ他にもあるものの、やはり傑作でしょう、この作品は。

Ernest Hemingway (far left) in the 1920s.jpg パンプローナのフェイスタの最中、へミングウェイの分身と思しき主人公のジェイクは、ある奔放な女性を巡って若手作家のブレット・アシュリーと争いますが、高見氏の解説によると、これはヘミングウェイが1925年に自分の妻のハドリーや作家仲間ら男女7人でパンプローナのフェイスタに行った時に、ダフ・トゥイズデンというヘミングウェイが魅了された女性を巡って起きた事件が、そのままベースになっているらしいです。

 恋の鞘当ての相手ブレットのモデルは、ダフと関係があったとされる若手作家のハロルド・ローブで、ダフには、パット・ガスリーというフィアンセもいたというからややこしい(こうした人たちが一緒になって旅行したわけで、これでは最初から一触即発状態ではないかと思うのだが)。

 現実は、ヘミングウェイがハロルド・ローブ喰ってかかったのが先だったようですが(ヘミングウェイは後でローブに詫びを入れている)、小説ではブレットが大人気なく激昂したようになっていて、この小説はアメリカで文学の新潮流として高く評価される一方で、"ご当地"欧州では、ゴシップ小説的な読まれ方もしたらしいです。

 フェイスタでの、左から、へミングウェイ、彼の恋のライバルのハロルド・ローブ(後方)、恋の相手ダフ・トゥイズデン、ヘミングウェイの妻ハドリー(中央)、1人おいてダフのフィアンセのパット・ガスリー(右端の呆け顔)[本書より]

 へミングウェイ自身は小説同様にダフを得ることが出来ないまま、妻ハドリーとも離婚することになり、更にこの小説により、これらの友人を永遠に失うことになりますが、後のインタビューで、「友人を失ったことについてさして痛みを感じない」、「物語を作ることとは、現実をよりあらまほしき形に再構成すること」であり、「物語のモデルとは、セザンヌが風景の一部に人の姿を描くようなものだ」と言っています。

 「登場人物の造形に実在の人物の姿を借りても、そこに息を吹き込んだのは自分自身の創造だ」(友人宛の手紙より)という作家の強い自負を感じる一方で、現象面だけを捉えると、何だか男らしくないというか、後に築かれた、"アメリカ人の多くが敬愛する作家"、"というイメージとは食い違っている気がして、この人、結構、嫉妬深いというか("女性的"と言うのは差別になるかも知れないが)、嫌なヤツと言うか―その点でまたへミングウェイという作家に新たな興味が湧きました。

 【1955年文庫化[新潮文庫 (大久保康雄:訳)]//1958年再文庫化[岩浪文庫 (谷口睦男:訳)]/1978年再文庫化・2009年改装版[集英社文庫 (佐伯彰一:訳)]/2003年再文庫化[新潮文庫 (高見 浩:訳)]】

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写真やイラストを交え詳細に描かれる1880年代のニューヨークの街の様子が魅力。

ふりだしに戻る 上.jpg ふりだしに戻る下.jpg 『ふりだしに戻る〈上〉(下)』 〔'91年/角川文庫〕

Time and Again.jpg 1970年原著刊行の米国人作家ジャック・フィニイ(Jack Finney、1911-1995/享年84)のタイムトラベル・ミステリで(原題は"Time and Again")、'91年初版の角川文庫の口上に「20年の歳月を越えて、ふたたび蘇る」とあるように、福島正実(1929-1976)による初訳は、同じく角川から1973年7月に刊行されていて、福島正実さんって早世だったなあと改めて思ったりします(享年47)。

 広告会社でイラストレーターをしていたサイモン・モーリーは、恋人ケイトの養父の自殺現場に残されていた90年前に投函された手紙が気にかかっていたが、ある日男に声をかけられて、現代人を過去に送り込むタイプスリップの実験プロジェクトに参加することになり、自らの希望でその手紙の謎を追って1882年のニューヨークにやってくる―。

 「これは政府の極秘プロジェクトなのだが...」と謎の男が現れて言い、「君は才能を見込まれてその候補に選ばれた」なんていうのがちょっと臭いけれども、映画「メン・イン・ブラック」('97年)とかで最近でも使われているパターンだし、その「才」のある人間ならば「過去のある場所にいると強く思い込む」だけで過去に行くことが出来る―というのがSFのレベルとしてどうかというのもあるけれど、TVシリーズ「HEROES/ヒーローズ」('06年〜)で今まさに超能力者たちがやっているのもこのパターンであり、あまりケチをつけるべきでもないものかもしれません。

 ただ、ミステリに恋愛を絡めたことでミステリ部分は弱まってしまった面もあるし(もともと、この話のトリック自体が古典的)、過去の世界に生きる異性に恋をするというのもタイム・ファンタジーの常道と言えば常道で、どうしてこの作品がタイムトラベルものの名作とされるかというと、やはり、マニアックなまでに詳細に描かれる1880年代のニューヨークの街の様子や人々の暮らしぶりのためでしょう。

 当時の建造物から交通機関、ファッションまでの写真やイラストを交えての描写は、1880年代の「ニューヨーク紀行」であり、「ニューヨーク旅ガイド」になっているようにも思え(作者自身もこれを最も描きたかったのでは?)、実際、自分がそこに行ったような気になるとともに、この小説によって、ニューヨークの街にも歴史があるのだという意識を改めて抱いたといってもいいかも知れません(ブロードウェイを馬車が走っている様なんて、それまであまり想像したことがなかった)。

The Time Tunnel.jpg 国家予算を投入した極秘の時間航行プロジェクトで、但し、タイムトラベラーは歴史を変えてはいけない、という"お約束ごと"は、60年代のTVシリーズ「タイムトンネル」と同じ。但し、沈没直前のタイタニック号や陥落直前のアラモ砦にたまたま"流れ着く"といった「タイムトンネル」流のご都合主義がないだけ、まだこっちの方がリアリティがある?
 "The Time Tunnel"

 【1991年文庫化[角川文庫]】

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壮大なプロットもさることながら、主人公がトラウマから立ち直り男気に目覚めるプロセスがいい。

スナップ・ショット 新潮文庫.jpgスナップ・ショット(新潮文庫)』 〔'84年〕 スナップ・ショット(集英社文庫).jpgスナップ・ショット(集英社文庫)』 〔00年〕

Snap Shot.jpg 1982年に発表された冒険小説作家A・J・クィネル(A. J. Quinnell 1940-2005)の小説で、 『燃える男』 Man on Fire (1980)、『メッカを撃て』 The Mahdi (1981)に続くもの。

 天才カメラマンのマンガーは、ベトナム戦争でのトラウマから性的不能となりカメラも捨てていたが、ある女性と出会い、カメラマンとしての腕と男としての自信をも取り戻すことが出来た。 
 その頃、イラクではサダム・フセインが原発の建設に取り組んでいたが、イスラエルでは、それが原発に名を借りた核兵器工場と疑っており、空爆による破壊工作を策していた。しかし、フセインの陰謀を立証するためには、証拠写真が必要であり、そこでマンガーに白羽の矢が立つ―。

 クィネルの作品は『燃える男』のような元傭兵クリーシーが主人公として活躍する「クリーシーシリーズ」と、『メッカを撃て』のような"独立系"の話がありますが、これは独立系なので単独で楽しめ、出来もいいと思いました(個人的には、『ヴァチカンからの暗殺者』(1987)など"独立系"の話の方が、この人の作品は面白いと思う)。

 何よりも、その当時何気なくなく読んでいたプロットが、この作品発表の前年にイスラエル空軍機がイラクの原子炉を急襲し破壊した事実をベースにしており、更にその後の湾岸戦争、イラク戦争に繋がる政治背景をしっかり取材して書かかれていたものであったことに気づかされ、今更のように驚かされます。

 それでもって、かなり自由にフィクションを織り込み、話を壮大かつ面白くしているというのが、この人の作品の特徴でしょうか(『ヴァチカンからの暗殺者』なんて、ローマ法王を守るためにソ連の書記長を暗殺しようとする話だから、スケールは大きい)。

 ただ、個人的には、プロットの壮大さよりも、このマンガーの鬱屈から立ち直って男気に目覚めるプロセスが好きです。

シベールの日曜日1.jpgシベールの日曜日.jpg 前半部はセルジュ・ブールギニョン監督の「シベールの日曜日」('62年/仏)を思い出しましたが、あの映画でハーディ・クリューガー演じる元パイロットの主人公は、インドシナ戦争でベトナム人少女を空爆で殺したのでないかというトラウマから記憶喪失となりますが、孤独な少女との触れ合いを通して癒されていく―、しかし、2人が出会う日曜日、彼のことを変質者だと決め込んだ医師の通報で駆けつけた警官により...。

シベールの日曜日2.jpg この映画の微妙な点は、主人公がトラウマから反動的にロリコン化して最終的には立ち直れなかったともとれることではないでしょうか(少しひねくれ過ぎ? しかし実際、この映画は"ロリコン映画の傑作"という評価のされ方もしている)。

 「シベールの日曜日」●原題:CYBELE OU LES DIMACHES DE VILLE D'AVRAY●制作年:1962年●制作国:フランス●監督:セルジュ・ブールギニョン●脚本:セルジュ・ブールギニョン/アントワーヌ・チュダル●撮影:アンリ・ドカエ●音楽:モーリス・ジャール●原作:ベルナール・エシャスリオー「ビル・ダヴレイの日曜日」●時間:110分●出演:ハーディ・クリューガー/パトリシア・ゴッジ/ニコール・クールセ/ダニエル・イヴェルネル,/アンドレ・ウマンスキー●日本公開:1963/06●配給:東和●最初に観た場所:有楽町スバル座(80-06-06)(評価:★★★)●併映「悲しみこんにちは」(オットー・プレミンジャー)

A.J.クイネル氏.jpg クィネルは長年覆面作家で通して地中海のマルタの小島などに住んでいたけれども、その地で日本人の青年に「あなた、クィネルさんでしょ?」と言われて観念して、覆面を脱いだとか。タンザニア生まれで、イギリスで教育を受け、作家になる前は世界を駆け回るビジネスマンだったことが、初めて世に知られたのは1999年のこと。

 その後、日本にも講演に来ていますが、シャイな人で、講演ではすごく緊張していて(前述の日本人の青年に正体を見破られた話はこの時にした。その日本人青年も講演会場に来ていたから、事実に近い話なのだろう)、残念ながら2005年に亡くなっています(旅行会社が「追悼ツアー」なんていうのを企画していた)。
                                    
 A・J・クィネル A. J. Quinnell (1940-2005/享年65)

クイネルが描いたマルタの世界を.jpgゴゾへの追悼の旅.jpg
  「A・J・クィネル追悼ツアー」パンフ 〔'06年〕


 【1984年文庫化[新潮文庫]/2000年再文庫化[集英社文庫]】

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ケイとマリーノのやりとりがいい。テレビドラマに「BONES」のようなフォロアーを生んだ。

検屍官.jpg 『検屍官 (講談社文庫)』 〔'92年〕 BONES.jpg "BONES"

Postmortem.jpg 1990年に発表されたパトリシア・コーンウェルの「検屍官シリーズ」の第1作(原題"Postmortem")で、主人公である40歳の女性検屍官ケイ・スカーペッタが、バージニア州リッチモンドで起きた女性連続殺人事件の犯人に迫るというストーリー(但し、シリーズの途中で、ケイの年齢は30代に改変されている)。

 文庫で500ページを一気に読ませる力量は、その後のシリーズの人気を予感させ、ミステリとしての面白さよりは、主人公の魅力で引っぱられる感じがしますが、それだけで次作へ次作へと読み進みました。

 捜査に積極的に加わり捜査方針を左右する発言権を持つ検屍長官というのは超エリート、つまり彼女はスーパー・キャリアウーマンといったところでしょうが、彼女の一人称で語られる文章は、その冷静で知的な分析力だけでなく、人間的な感情の起伏をよく表していて、組織内での女性キャリアゆえのストレスや不安から幼い頃から抱えるコンプレックスまですべて吐露されていて、かえって親近感を覚えます。

 個人的には、部長刑事ピート・マリーノとの皮肉やユーモアに富んだやりとりが好きで、マリーノは時にセクハラともとれる言動があるが、実のところケイを大いに助けていて、イタリア系同士ということもあり、やはりこの2人、実は気が合っているということか。

 リッチモンドは当時、アメリカ随一の犯罪都市だったそうですが、地元新聞の警察担当記者として犯罪レポートを書いた著者の経歴が、物語のリアリティを高めていて、さらにこのデビュー作には、検屍局でコンピュータ・プログラマーとして勤務したという著者の経歴がよく生かされていると思いました。

 一方、事件が複雑なわりにはオチがあっさりしている傾向が、この作品も含めこのシリーズにあり、15年間で14作刊行されたのは、よく続いた方と見るべきかもしれません。

「Law & Order:性犯罪特捜班」   「BONES」
LAW & ORDER: 性犯罪特捜班.jpgBones (FOX).jpg テレビドラマなどに明らかにこのシリーズの影響を受けていると思われるフォロアーを多く生み、「Law & Order:性犯罪特捜班」(旧バージョンからスピンアウトして女性が主役になった)や「BONES」(こちらも有能な女性法人類学者が主人公で、殺人捜査班の男性捜査官と組ん仕事をする)、更には「女検死医ジョーダン」なんてパクリが出てきてしまっている今、このシリーズはもう復活はない?と思っていたら、'07年に15作目『異邦人(上・下)』('07年/講談社文庫)が出ました(手元にあるけれど、未読。第11作の『審問』以降、全部上下巻と長いんだよなあ)。

Law & Order:性犯罪特捜班 dvd.jpgLaw & Order:Special Victims Unit.jpg「Law & Order:性犯罪特捜班」Law & Order: Special Victims Unit (NBC 1999/09~ )○日本での放映チャネル:FOX CRIME

BONES3.jpg「BONES」Bones (FOX 2005/09~ ) ○日本での放映チャネル:FOX (2006~ )

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ナイーブな感性から男性原理へ。ハードボイルドのルーツは新聞記者の文章?

われらの時代・男だけの世界.bmpわれらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)』 ['95年] われらの時代に/ヘミングウェー短編集1.jpg 『われらの時代に (福武文庫―海外文学シリーズ)』 ['88年]

Men Without Women.jpgin our time.jpg ヘミングウェイ Ernest Hemingway (1899-1961)の短編のうち、文豪誕生の黎明期とも言える初期のパリ在住時代のものが収められていて、1924年刊行の『われらの時代』"In Our Time"と、1927年刊行の『男だけの世界』"Men Without Women"の2つの短編集の「合本」であるとも言えるものですが、高見浩氏による翻訳は新潮文庫のための訳し下ろしであり、現代の感覚から見ても簡潔・自然なその訳調は、「新訳」と言っていいと思います。

 『われらの時代』も『男だけの世界』も、含まれる短編の多くにニック・アダムスという少年期から青年期のヘミングウェイを思わせる若者が登場しますが、『われらの時代』にはどちらかと言うと、若者のナイーブな感性がとらえた世間というものが反映されているのに対し、『男だけの世界』の方は、男性原理が前面に出た(短編集の表題通り女性が殆ど登場しない)、男臭いというかハードボイルド風のものが殆どとなっています。                      "In Our Time"(1924)/"Men Without Women"(1927)

 時間的には、この両短編集の間に、当初は短編として構想され、書き進むうちに長編になった『日はまた昇る』"The Sun Also Rises"(1926年)が書かれているわけですが、その時期は、ヘミングウェイが妻と愛人の間で板ばさみになり、心理的に袋小路に追い詰められていた時期でもあり、その両方を失って彼は女嫌いとなったのか、女性的なものを作品に持ち込むことを意図的に避けるようになったようです。

A river runs through it.jpg 『われらの時代』は、青春時代が第一次世界大戦後の虚脱状態の世相に重なった"ロスト・ジェネレーション"に意味的に重なるものであり、この中では「二つの心臓の大きな川」という作品が秀逸。
 心に傷を負った主人公のニックがミシガン湖で友人と釣りをするだけの話ですが、フライフィッシングの描写が素晴らしく(ロバート・レッドフォード監督の「リバー・ランズ・スルー・イット」を思い出した)、また、釣れた鱒を捌く描写の簡潔で的確な筆致は(『老人と海』(1952年)にも魚を捌く場面があるが、それに近い)、同時に主人公の生への意欲の回復を表している感じがしました。
"A river runs through it" (1992) DVD

A river runs through it 2.jpg 「リバー・ランズ・スルー・イット」(原作はノーマン・マクリーンの「マクリーンの川」)では、主人公(クレイグ・シェイファー)が、牧師だった父(トム・スケリット)と才能がありながらも破天荒な生き方の末に亡くなった弟(ブラッド・ピット)を偲んで、故郷の地で、かつて父から教わり、父や弟と親しんだフライフィッシングをする場面が美しく、また、こうした「供養」と言える行動を通して主人公が癒されていくスタイルが独特だなあと思ったのですが、「二つの心臓の大きな川」においても、フライフィッシングが主人公の戦争体験のトラウマを癒す役割を果たしているように思えます。

 そう言えば、'60年代のビート・ジェネレーションの作家リチャード・ブローティガンにも『アメリカの鱒釣り』('75年/晶文社、'05年/新潮文庫)という処女小説(短編集)があり、釣りとアメリカ人の精神性はどこかで繋がるところがあるのかなと思ったりしました。

「リバー・ランズ・スルー・イット」●原題:A RIVER RUNS THROUGH IT●制作年:1992年●制作国:アメリカ●監督・製作総指揮:ロバート・レッドフォード●脚本:リチャード・フリーデンバーグ●撮影:フィリップ・ルースロ ト●音楽:マーク・アイシャム●原作:ノーマン・マクリーン 「マクリーンの川」●時間:124分●出演:者 ブラッド・ピット/クレイグ・シェイファー/トム・スケリット/ブレンダ・ブレシン●日本公開:1993/09●配給:東宝東和 (評価:★★★★)

 『男だけの世界』にも、老闘牛士をモチーフにした「敗れざる者」などの秀作もありますが、やはり、感情表現を排した簡潔な筆致で、ハードボイルドの1つの原型であるともされる「殺し屋」が印象に残ります。
 思えばヘミングウェイは、パリには新聞社の特派員として滞在していたわけで(第一次大戦中は通信兵として電文を打っていたこともあった)、そうすると、ハードボイルドのルーツは新聞記者の文章ということでしょうか(少し後に『大いなる眠り』(1939年)で長編デビューするレイモンド・チャンドラーも、新聞記者をしていた時期がある)。

 【1988年文庫化[福武文庫(『われらの時代に』)]/1995年文庫化[新潮文庫]】

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下層社会に暮らす少年の鬱屈と抵抗を、自体験に近いところで描くリアリティ。

長距離走者の孤独.jpg 『長距離走者の孤独 (新潮文庫)』 長距離ランナーの孤独.jpg 映画「長距ランナーの孤独」('62年)

LonelinessLongRunner.jpg長距離ランナーの孤独1.jpg 新潮文庫版は、1958年に発表された「長距離走者の孤独」(The Loneliness of the Long Distance Runner)をはじめ、アラン・シリトー(1928‐ )の8編の中短編を収めていますが、貧しい家庭で育ち、盗みを働いて感化院に送られた少年の独白体で綴られた表題作が、内容的にも表現的にも群を抜いています。

 シリトーにはこの他にも、『土曜の夜と日曜の朝』といった代表作がありますが、それらと比べても印象に残っているし、トニー・リチャードソン(1928-1991)監督の映画化作品「長距離ランナーの孤独」('62年/英)も有名です。
"Loneliness of Long Distance Runner" (1962/UK)

 もともと原作が手記形式なので、映画で主人公が長距離走において遅れてゴールした後ニヤリと笑うなど、表現上やや説明的にならざるを得ないのはいたし方ないか(原作では泣きそうになっているのだが、実はこれ、"勝利"の嬉し泣きをこらえていることになっている。脚本はシリトー自身)。

1967_The_Sailor_from_Gibraltar.jpg 「ホテル・ニューハンプシャー」('84年/米) の監督でもあるリチャードソンは、シーラ・ディレーニーの『蜜の味』などの文芸作品も映画していますが、この人の旧い映画ではマルグリット・デュラス原作の「ジブラルタルの追想」('67年/英)を観ただけで、ジャンヌ・モローが綺麗だが、映画自体は凡庸。文学作品を映画化するのは、往々にして難しい...。

 話が映画の方に逸れてしまうのは、本作のストーリー自体はシンプルで、書けば"ネタばれ"になってしまうためですが(もう一部書いてしまったが、と言っても、広く知られているラストだが)、ラスト以外でのこの作品の優れた点は、主人公の少年コリンが友人と共にパン屋に強盗に入ったために捕まる場面で、刑事が自宅に捜索に来た時の主人公の心理などは、作者の体験談ではないかと思われるぐらい、目いっぱいの臨場感があります。

 シリトーは、50年代に登場し偽善的な体制や権力者を糾弾した《怒れる若者たち》と呼ばれる作家グループの1人ですが、このグループに属するとされる『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーンや『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインなどは、概ね一流大学出身で大学に教職を得た知識人であるのに対し、シリトーは、工場労働者の家庭の出身で、自らも熟練工員でした。

 結局、《怒れる若者たち》の作家達の作品群で、今世紀になっても最も読み継がれている作品を1つ挙げるとすれば『長距離走者の孤独』になるわけで、その理由として、シンプルだが象徴的な結末と併せて、下層社会に暮らす少年の鬱屈と抵抗を、自らの体験に近いところで描いていることからくるリアリティが挙げられるのではないかと思います。

「長距離ランナーの孤独」●原題:THE LONELINESS OF THE LONG DISTANCE RUNNER●制作年:1962年●制作国:イギリス●監督・製作:トニー・リチャードソン●脚本:スタンリー・ワイザーアラン・シリトー●撮影:ウォルター・ラサリー●音楽:ジョン・アディソン●原作:アラン・シリトー●時間:104分●出演:トム・コートネイ/マイケル・レッドグレイヴ/ピーター・マッデン/ジェームズ・フォックス●日本公開:1964/06●配給:昭映(評価:★★★)

 【1973年文庫化[新潮文庫]/1978年再文庫化[集英社文庫]】

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死刑制度の非道・不合理を訴えた「序」の方が、ストレートに響いた気もする。

死刑囚最後の日.gif 『死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)』 ['82年改版] 「死刑囚最後の日」.jpg 電子書籍版 (グーテンベルク21/斎藤正直:訳)

Victor Hugo.jpg 1829年2月に"著者名無し"で刊行されたヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の小説で、ある男が死刑判決を受け、それが執行されるまでの心境を、男の告白という形式でドキュメンタリー風に綴ったもの。

 裁判の時は、男は弁護士が求めた終身刑になるぐらいなら死刑の方がマシだと考えていが、死刑執行が迫るにつれ終身刑でもいいからと赦免を望むようになり、ギロチン刑による処刑の直前には、僅か5分間の執行猶予さえ求めるようになる―。

Victor Hugo (1802-1885)

 当時の監獄や徒刑囚、死刑執行の様子などがよくわかりますが、留置されている場所からパリ市中を通ってグレーブの刑場へ行き、そこで公開処刑されるというのは、日本の江戸時代の市中引き回しと似ていると思いました。

 監獄で鎖に繋がれながらもインキと紙とペンを与えられ、それにより自らの精神的苦悶を記したという前提ですが、表題通り、処刑当日の朝から午後4時の執行までの男の心境が作品の大部を占め、この部分は「手記」としてではなく、小説としての「独白」でしか成立し得ないわけで、この点がちょっと引っ掛かりました。

 娘や家族との最後の別れに絶望したりしながらも、全体のトーンとしては、意外と男が冷静に周囲を観察し、また周囲の人と話しているような気がして、こんなに冷静でいられるものかなあとも(自分が、今日の夕方にはこの世からいなくなるということが実感できないでいる様子ともとれるが)。

 但し、この作品以前には、こうした死刑囚の心理に深く触れた文学というのは無かったわけで、ドストエフスキーなどもこの作品を自らの創作の参考にしたらしいです(尤も、ドストエフスキー自身が死刑宣告を受け、執行の直前までいった経験の持ち主だったわけだが)。

 ヴィクトル・ユーゴーはこの作品の執筆当時26歳で、この時既にロマン派の詩人・作家としての名声を得ていましたが、この作品には死刑廃止論(死刑慎重論)という彼の政治的・社会的思想が込められており、但し、その考え方が世論に受け入れられるかどうかを見るために、「文学」という形式をとり、且つ匿名で発表したとのこと。

 世評の支持を得たとして、本編刊行の3年後に、実名を公表して添えた長めの序文(本編の後に付されている)の方は、死刑執行の残虐さ・非道を事例でリアルに伝える一方で、「社会共同体からの排除」「社会的復讐」「見せしめ・訓育」などの死刑制度擁護論の論拠を理路整然と論破し、死刑制度の不合理を「切実」且つ「現実論的」に訴える政治・社会評論になっていて、こちらの方がむしろ個人的にはストレートに胸と頭に響きました("現実論的"部分は、例えば「まず確信犯の死刑から廃止せよ」と段階的廃止を主張している点など)。

宣告1.jpg 凶悪犯罪が目立つ昨今、死刑容認論が大勢を占めるようですが、このユーゴーの「序」と加賀乙彦『宣告』を読むと、かなりの人が死刑廃止論に傾くような気がするけれども、どうでしょうか。

加賀乙彦 『宣告 (上・中・下) (新潮文庫)
 
 
 

 【1950年文庫化・1982年改版[岩波文庫]】

《読書MEMO》
●「序」より
「死刑を廃止せよというのではなく、慎重に論議すべきである。すくなとも裁判官が陪審らに『被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか』という問いかけをすることにし、『被告は情熱によって行動した』と陪審員らが答える場合には、死刑に処することのないようにしたい」

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ドストエフスキー夫妻の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さの対比。

バーデン・バーデンの夏.jpgバーデン・バーデンの夏』〔'08年〕Leonid Tsypkin.jpg Leonid Tsypkin (1926-1982/享年56)

Summer in Baden-Baden.gif 1982年に米国の雑誌にその冒頭部分が発表され、その後長く埋もれていた小説を、米国の女性作家(活動家としても知られる)スーザン・ソンタグ(1933‐2004)がロンドンの古書店で見つけて再発掘したもので、このドストエフスキーへのオマージュに満ちたこの小説の作者のレオニード・ツィプキン(1926-1982)は、ドストエフスキーが唾棄したところのユダヤ人であり、作家ではなく優れた病理学者でしたが、旧ソ連末期、息子夫婦が米国へ亡命したために要職を外され、自らは出国も認めらないという不遇の中でこの小説を書き、米国で発表された1週間後に亡くなったとのこと。

 物語は、ドストエフスキーの妻アンナの日記を携えた語り手の「私」が、冬のモスクワからレニングラードに汽車で旅する最中、アンナの日記にある、新婚のドストエフスキー夫妻のドレスデンからバーデン・バーデンへの旅を追慕するように再現する形で始まっており(国内と外国、冬と夏という対比になっている)、以後、主に「アンナ・グリゴーリエヴナ」の視点から、彼の地で借金を抱えた夫「フェージャ」が賭博熱に憑かれ、屈辱、怒り、後悔、懇願を繰り返す様が描かれていますが、どう仕様もないような夫に従順につき従うアンナの姿には、ドストエフスキー作品の登場人物を思わせるような慈愛が感じられました。

 章や段落(改行)が無く句点も極端に少ない文体で、しばしば作者の意識とアンナの意識が交錯し、時にドストエフスキーの意識に深く入り込むという凝った形式をとっていて、2人の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さ(彼が抱える矛盾の典型とも言えるが)を対比的に浮かび上がらせるとともに、ドストエフスキーへの作者の抗い難い想いと、全人類に愛を手向けた彼が、ユダヤ人だけは、まるでそれらの埒外にあるように無視し嫌ったということに対する作者の悩ましい感情が、相克的に奔出されています(ここにも、もう1つの"矛盾"がある)。

 小林秀雄『ドストエフスキーの生活』(角川文庫)の巻末のドストエフスキーの年譜によると、1867年夏、『罪と罰』を前年に完成させた46歳のドストエフスキーは、21歳の新妻アンナとバーデンに滞在しており、この旅はこの小説にあるように、2人の新婚旅行であるとともに借金からの逃避行でもあり、一発巻き返しを狙うドストエフスキーは、滞在先で賭博ルーレットに嵌まり込んだようです。

 小林秀雄は、バーデン・バーデンについては、この地でドストエフスキーがツルゲーネフと対立したこと以外はさほど注目していないようで、それは、この新婚旅行が結局4年間も続くドストエフスキーの海外生活の始まりであり、その後、ドイツ各地の滞在先で、同じような"愚行"を彼が繰り返しているからだと思われます。
 その間に『白痴』を書き上げ、『カラマーゾフの兄弟』の構想も得ているわけですが、この小説では、まだ書かれていない小説の登場人物を用いた描写が多くあるのが興味深かったです。

 ドストエフスキーはこの長期海外滞在を終えた後も何度かドイツに出かけていますが、ドイツで公開賭博が禁止になったため、やりようがなかったらしく(賭博業者は皆、賭博の独占市場となったモンテ・カルロへ移った)、彼の晩年の家庭生活の平安は、モナコの王様のお陰だと、小林秀雄は『ドストエフスキーの生活』の中でジョーク気味に書いています。

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敢えて曇天の下でロケをした、ポランスキーの映画化作品を思い出した。

マクベス.jpg 『マクベス (光文社古典新訳文庫 Aシ 1-5)』〔'08年〕 安西徹雄.jpg 安西徹雄 (1933‐2008)

マクベス ポスター.jpgマクベス ポランスキー2.jpg 1606年に成ったとされるシェイクスピア4大悲劇の1つ。

 以前に、ロマン・ポランスキー監督の映画化作品('71年/米)を名画座で観ましたが、ローレンス・オリビエ監督の「ハムレット」('48年/英)とフランコ・ゼッフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」('68年/米)との3本立てでの上映で、この3本の中では一番時代劇風でありながらも、一番エキセントリックであったかも。

ロマン・ポランスキー監督「マクベス[ビデオ]」/ポスター(左)

マクベス ポランスキー.jpg  ホラー映画のような雰囲気もあり、ポランスキーだからと納得したいところですが、心理サスペンスが身上の彼にしては、マクベスの首から血がびゅうびゅう飛び出るようなシーンもあるスプラッター調。
 「マクベス」の映画化は、オーソン・ウェルズ他に続いて3度目でしたが、ポランスキー監督は、妻シャロン・テートを惨殺された事件の後の最初の作品で、血なまぐさいのはそのためなのか?(まさか)


リア王.jpg 安西徹雄の新訳も、『リア王』('06年/光文社古典新訳文庫)のときなどよりはちょっと"重い"感じで、もともと『マクベス』というのは、そうしたトーンの作品だということでしょうか。『リア王』みたいに道化も出てこないし...。

 ポランスキーの映画は屋内シーンがやけに暗く、セットの貧しさを隠すためにそうしたのだと言われていますが、野外シーンも同じように暗かったため、これは、敢えてどんよりとした曇天の下でロケをすることで、そうした中世スコットランドの政情不安からくる陰鬱なムードを象徴させていたということかも知れないと改めて思いました。

マクベス改版 角川文庫クラシックス.jpg マクベスが自らが殺したスコットランド王の幻影を見るシーンはちょっと滑稽さも感じるに対し、マクベス夫人が自分の手が血に塗られている幻覚を見るシーンは怖い。

 「バーナムの森が動かない限り」はマクベスの王座は安泰で、「女から生まれた者には敗れることはない」という魔女の予言が、どういった形でそれぞれ破られるのかというのも、読者の興味を引くところです。

 因みに、訳者の安西徹雄氏は、本書翻訳後、訳稿の校正段階で病のため入院し、'08年5月に逝去しています。残念。

 『マクベス―シェイクスピアコレクション (角川文庫クラシックス)

「マクベス」●原題:MACBETH●制作年:1971年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ロマン・ポランスキー●音楽:ザ・サード・イアー・バンド●原作:ウィリアム・シェイクスピア●時間:146分●出演:ジョン・フィンチ/フランセスカ・アニス/マーティン・ショウ/ニコラス・ セルビー/ジョン・ストライド/ステファン・チェイス/ポール・シェリー/テレンス・ ベイラー/アンドリュー・ローレンス/フランク・ワイリー●日本公開:1973/07●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(81-03-15) (評価★★★)●併映:「ハムレット」(ローレンス・オリビエ)/「ロミオとジュリエット」(フランコ・ゼッフィレッリ)


 【1958年・1997年文庫化[岩波文庫]/1968年・1996年文庫化[角川文庫]】

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リア王は「自己愛性パーソナリティ障害」の典型。

リア王.jpg 『リア王 (光文社古典新訳文庫)』 (安西徹雄:訳)['06年] リア王2.bmp 『リア王 (新潮文庫)』 (福田恒存:訳)['67年]

 1605年に成ったとされるシェイクスピア4大悲劇の1つ。
 ブリテン王・リア王は、突然引退を表明し、誰が王国継承にふさわしいか、娘たちの愛情をテストするが、気性の荒さと老いによる耄碌から、長女ゴネリルと次女リーガンの黒い腹の底を見抜けず、最愛の三女コーディリアには裏切られたとものと思い込む―。

 演劇集団「円」(これ、立ち上げたのは福田恒存だった)の演出者でもあった安西徹雄(1933‐2008)の新訳は、今日の役者のせりふとして観客がそれを聞いて自然に楽しめるような語調になっています。
 結果的に、福田恒存などによる従来訳に比べ大時代的な(日本流に言えば歌舞伎演劇的な)色合いが弱まり、その分、エンターテインメント性が前面に出ている感じですが、実際、シェイクスピアの時代の観客は、芸術鑑賞というより娯楽としてこの芝居を楽しんだのではないかと思われ、そうした当時の観客の意識に近づけたような気がします。

自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本.jpg 以前読んだ『自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本』('07年/講談社)で、「自己愛性パーソナリティ障害」の典型例としてこの「リア王」が挙げられていましたが、「自己愛性パーソナリティ障害」とは健全な人間関係を築けないという障害であり、根本にあるのは「愛しているのは自分だけ」という思いで、極端に自己中心的で、他者から賞賛を求めるが他者への配慮はなく、傲慢・不遜な態度が目立つとのこと。
 当て嵌まっているなあ、確かに。

 リア王の臣下でグロスター伯というのが出てきますが、この人物が「ミニ・リア王」みたいな人で、息子2人のどちらが自分を愛しているかが見抜けないのですが、こうした重層構造のプロットにし、さらにリアの悪い娘とグロスターの悪い息子が結託して―といった具合に話を"面白く"していて飽きさせません。

 こうしたジグソーパズルの組み合わせみたいなストーリー構成はツボを押さえているという感じで、『ロミオとジュリエット』などもそうですが、最後の何枚かのピースを裏返すと、そのままハッピー・エンドにもなるかも。
 実際、解説によると、ネイハム・テイトという17世紀の人がこれをハッピー・エンドに改作し、19世紀中ごろまで150年以上にわたって舞台で演じ続けられたのは、このテイト版だったとのことです。

 【1967年文庫化[新潮文庫]/1973年再文庫化[旺文社文庫]/1974年・2000年再文庫化[岩波文庫]】

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学校で子どもは何を学び、教師は何を教えるのかということを、改めて考えさせられる作品。

飛ぶ教室 実業之日本社.gif 実業之日本社 ['50年] KÄSTNER ERICH Das fliegende Klassenzimmer.jpg 原著 飛ぶ教室 岩波全集版.gif 『飛ぶ教室 (ケストナー少年文学全集 (4))』 岩波書店 ['62年] Das fliegende Klassenzimmer

Kästner, 1970.jpg 1933年発表のドイツのエーリッヒ・ケストナー(1889‐1974)の代表的児童文学で、舞台はクリスマス間近のライプチヒの寄宿学校ですが(クリスマスに上演する芝居のタイトルが 「飛ぶ教室」というもの)、寄宿学校の級友5人と舎監の「正義先生」、先生のかつての親友で、今は世捨て人のような暮らしを送る「禁煙先生」らを巡ってのお話は、ケストナー作品の中でも、と言うより児童文学全体でも有名。
 Kästner, 1970年 (80歳)

 実業之日本社版('50年)は、岩波の全集版('62年)と同じく高橋健二訳で、版型や紙質は異なりますが、表紙のトーンや挿絵にワルター・トリヤーの絵を用いている点は同じです。但し、岩波版の方が行間を広くとってルビがふられていて、読みやすいかも(行間が広い分だけ本の形が真四角に近いが、原著の版型を忠実に再現したのか?)。

わんぱく戦争.jpg飛ぶ教室 映画.jpg 映画化もされていますが('03年/独)未見であり、寄宿学校の生徒が地元の実業学校生と対立関係にあって拉致された仲間を取り戻すために果し合いをやるところなどは、隣り合う2つの村の少年グループが互いの服のボタンを奪い合って争うイヴ・ロベール「わんぱく戦争」('61年/仏)を想起しました。

わんぱく戦争2.jpg 「わんぱく戦争」の原題は「ボタン戦争」で、2つの村の子供たちは真剣に戦争をしていて、敵の捕虜になると着ている服のボタンが剥ぎ取られ、時には服もズボンも奪われて、泣く泣く仲間たちの所へ戻らなければならない―でも、陰湿な感じが全く無く、観ていて何となく微笑ましい気分になり、子供独自の世界がほのぼのと描かれていたように思いました。

わんぱく戦争2.jpgテアトル銀座 .jpg「わんぱく戦争」●原題:LA GUERRE DES BOUTONS●制作年:1961年●制作国:フランス●監督:イヴ・ロベール●脚本:フランソワ・ボワイエ●撮影:アンドレ・バック●音楽:ジョセ・ベルグマン●原作:ルイ・ペルゴー●時間:95分●出演:アンドレ・トレトン/ジャン・リシャール/ミッシェル・イセラ/アントワーヌ・ラルチーグ●日本公開:1963/03●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:テアトル銀座 (81-05-04)(評価:★★★☆)●併映:「リトル・プレイボーイ/チャーリー&スーピー ラブ・タッチ作戦」(マヌエル・サマーズ)
「わんぱく戦争」1981年公開時チラシ       テアトル銀座 (テアトル東京地下) 1981年閉館

 フランスもドイツも同じだなあと。日本でもかつては、どこにでもこうした子ども同士の"戦争"があり、"秘密基地での作戦会議"などは誰もが経験したことだったと思うけれど、最近はどうなのでしょうか(よその子の服やズボンを奪ったりしたら訴訟問題になりかねない?)。

 『飛ぶ教室』は、物語としては、仲間を取り戻すために果し合い(表紙に描かれている)が前半のクライマックスだとすれば、お金が無くて帰省できないでいる主人公のマルチンに「正義先生」が手をさしのべるのが後半のクライマックスと言えるかと思いますが、その間にも、弱虫ウリーが勇気を見せようと体操梯子から落下傘降下した事件や(この件に関する「禁煙先生」のコメントがいい)、子どもたちの「正義先生」を「禁煙先生」に引き合わせるための奔走ぶりなど、じぃーんと来る山場が多い作品。

 先生も生徒も出来すぎ?(「正義先生」というネーミングからしてストレート)との感じもしますが、貧しかった作者自身経験からの、自分の寄宿生時代にこんな先生がいてくれたらという想いや、この作品の執筆時点での台頭するナチズムの中での自由についての想いが込められていると考えれば、理想主義的な作りになるのはわかるし、かえって素直に感動できます。

新訳『飛ぶ教室』.jpg 登場する少年たちは、芝居の発表会とクリスマス休暇へ向けての慌しい中、1つ1つの出来事を通して日々大人になっていく感じがし、日本の小学校高学年にあたる年齢ですが、最近の日本の小学生は中学受験の方でで忙しかったりするわけで、学校で子どもは何を学び、教師は何を教えるのかということを、こうした時代だからこそ改めて考えさせられる作品でもあります。

 【1950年単行本[実業之日本社]/1962年単行本[岩波書店「ケストナー少年文学全集 (4)」]・2006年文庫化[岩波少年文庫]/1968年単行本[ポプラ社]・1986年再文庫化[ポプラ社文庫]/1978年単行本[偕成社]/1983年再文庫化・2006年改版[講談社文庫]/1987年単行本[講談社]・1992年再文庫化[講談社「青い鳥」文庫]/1990年・2003年単行本[国土社]/2005年再文庫化[偕成社文庫]/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫]】

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ワイド・シークエンスで伝わってくるモンゴルの平原の広大な景観。

スーホの白い馬2.jpg 『スーホの白い馬―モンゴル民話 (日本傑作絵本シリーズ)

馬頭琴.jpg 1967(昭和42)年刊行で、元になっているのはモンゴル民話。
 貧しいけれどもよく働く羊飼いの少年スーホは、ある日、地面に倒れもがいていた白い子馬を拾って家に連れて帰ってくる。スーホの世話したかいがあって、やがて子馬は立派に成長し、スーホは、殿様が開く競馬大会にこの白い馬と参加して見事優勝するが―。

 モンゴルの楽器・馬頭琴の由来になっている話であるとのことですが、この絵本のお陰で、ご当地のモンゴルよりも日本での方がよく知られている物語になりました。
子供の頃に読んでやけに悲しかった思い出がありますが、国語の教科書に出ていたらしいです(もう、その辺りの記憶はないが)。

 赤羽末吉(1910-1990)の絵がいい。この人、'80年に日本人で初めて「国際アンデルセン賞」の「画家賞」('66年開設)を受賞していて、その後に日本人でこの画家賞を受賞したのは、今のところ安野光雅氏('84年受賞)しかいません('08年現在)。

 絵本のサイズが24cm×32cmで、絵が全部見開きなので、幅60cm以上のワイドなシークエンスになり、これがモンゴルの平原の広大な景観などをよく伝えていますが、演劇の舞台絵の画家でもあったことを考えると、確かに、奥行きや照明効果的なものもうまく採り入れているなあと改めて感心させられます。

 ストーリーはシンプルですが、名作童話というのは意外とそういうものかも。
 作家の椎名誠氏がどこかで推薦していましたが、この作品をモチーフに「白い馬-NARAN-」('95年)という映画も撮っているぐらいですから、その思い入れは相当のものなのでしょう。でも、わかる気がするなあ。椎名氏なら嬉々として現地ロケやりそう。

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童話と言うよりもある種"幻想文学"。それにマッチした画調。いわさきちひろの影響も?

赤い蝋燭と人魚.jpg 『赤い蝋燭と人魚』 (2002/01 偕成社) 赤い蝋燭と人魚2.jpg

 2002(平成14)年刊行で、1921(大正10)年発表の小川未明(1882‐1961)の代表作『赤い蝋燭と人魚』に、絵本作家の酒井駒子氏が絵を画いたもの。

 この作品は、個人的には童話と言うよりもある種"幻想文学"に近い作品だと思うのですが、最初は「東京朝日新聞」に連載され、挿画は朝日の漫画記者だった岡本一平(岡本太郎の父)が担当したとのこと、どんな挿絵だったのか知り得ませんが、当初から文も絵も「大人のための童話」として描かれたということでしょうか。

 物語は、ある町に老夫婦がいて、そこに異世界からの訪問者(この場合は人魚の赤子)が来る、その結果その町に起きた出来事とは―という、未明童話の典型とも言えるストーリー。
 老夫婦は人魚の子を神からの授かりと考え自分たちの娘のように育てるが、娘が描いた絵のついた蝋燭が非常に売れたため、とうとう金に目が眩み、人魚を珍獣のような扱いで香具師に売り飛ばしてしまう。
 娘を人間界に託したつもりだった母親の人魚は、人間に裏切られた思いでその蝋燭を買い取り、そして町に対し―という復讐譚ともとれるもの。

「赤い蝋燭と人魚」.jpg これまでに多くの画家や絵本作家がこの作品を絵本化しており、いわさきちひろ(1918‐1974)によるもの('75年/童心社)はモノクロで、絵というより挿画かデッサンに近いですが、がんに冒されていた彼女の未完の遺作となった作品でもあり、また最近では、たかしたかこ(高志孝子)氏によるもの('99年/偕成社)などの人気が高いようです。

いわさき ちひろ 『赤い蝋燭と人魚』 (1975年)

 画風の違いはそれぞれありますが、酒井駒子氏も含めたこの3人に共通するのは、母子の愛情の繋がりを描いた作品群があることで、子を想う母親の気持ちの強さがモチーフの1つとなっているこの作品を絵にするうえでピッタリかも。
 ただ、この作品に漂う寂寥感や不気味さの部分を表すうえでは、ミステリーの表紙画などを手掛けている酒井氏の画風が(最近の『三番目の魔女』や『魂食らい』のカバー絵などを見てもそうですが)、一番合っているのではないかと。                   
 酒井駒子氏のこうした翳りのあるバージョンの絵は(特に人魚の娘の表情などは)いわさきちひろの影響を受けているようにも思え(絶筆となったこの物語の絵本化を、酒井氏が引き継いだようにも思える)、やはりいわさきちひろの影響というのは絵本の世界ではかなり大きいのではないかと思いました。

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切ないがファンタジックでもあるストーリーの雰囲気をよく醸している絵。

ごんぎつね.jpg 『ごんぎつね (日本の童話名作選)』 新美南吉.jpg 新美南吉(1913-1943/享年29)

 1986(昭和61)年の刊行で、1932(昭和7)年1月号の「赤い鳥」に新美南吉(1913‐1943)が発表した彼の代表作「ごん狐」に、イラストレーターの黒井健氏が絵を画いたものですが、刊行来50万部以上売れているロングセラーであり、DVD化もされています(DVDの語りは大滝秀治)。

 近年の派手な色使いが多い絵本の中では珍しく柔らかなタッチであり、また、人物や"ごん"を遠景として描く手法は、哀しく切ないけれどもファンタジックな要素もあるこのお話の雰囲気をよく醸し出しています。
 黒井氏は「ごんぎつね」の他に南吉のもう1つの代表作「てぶくろをかいに」も絵本化を手掛けていますが、こちらも原作の世界を違和感なく表しており、南吉の作品は多くの絵本作家にとって手掛けてみたいものであると思われますが、なかなか黒井氏のものに拮抗する絵本は出にくいのではないかとさえ思わせます。

「ごんぎつね」の直筆原稿.jpg 原作「権狐」は、南吉18歳の時の投稿作品で、「赤い鳥」創刊者の鈴木三重吉の目にとまり、同誌に掲載されましたが(因みに三重吉は、同誌に投稿された宮沢賢治の作品は全く認めず、全てボツにした)、この三重吉という人、他人の原稿を雑誌掲載前にどんどん勝手に手直しすることで有名だったようです。

 「ごんぎつね」直筆原稿

 この作品は、三重吉によって先ず、タイトルの表記を「ごん狐」と改められ、例えば、冒頭の
 「これは、私が小さいときに、村の茂平といふおぢいさんからきいたお話です」(絵本では新かな使い)とあるのは、元々は―、
 「茂助と云ふお爺さんが、私達の小さかつた時、村にゐました。「茂助爺」と私達は呼んでゐました。茂助爺は、年とつてゐて、仕事が出来ないから子守ばかりしてゐました。若衆倉の前の日溜で、私達はよく茂助爺と遊びました。私はもう茂助爺の顔を覚えてゐません。唯、茂助爺が、夏みかんの皮をむく時の手の大きかつた事だけ覚えてゐます。茂助爺は、若い時、猟師だつたさうです。私が、次にお話するのは、私が小さかつた時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです」
 という長いものだったのを、彼が手直したそうです(随分スッキリさせたものだ)。

「ごんぎつね」の殿様 中山家と新美南吉.jpg 東京外国語学校英文科に学び、その後女学校の教師などをしていた南吉は29歳で夭逝しますが、生涯に3度の恋をしたことが知られており、最後の恋の相手が、先ほどの冒頭文に続く「むかしは、私たちの村のちかくの、中山といふところに小さなお城があつて、中山さまといふおとのさまが、をられたさうです」とある「中山家」の六女ちゑだったとのこと。
 中山家とは家族ぐるみの付き合いがあり、彼の童話の多くは中山家の長老が語る民話がベースになっているとの説もありますが、結局、ちゑとは結婚に至らなかったのは、自分の余命を悟って創作に専念したかったのではないかと、自分は勝手に想像しています。

新美南吉記念館(愛知県半田市)特別展ポスター(2006年7月-9月)
 
 
 

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小学校5年生の光君とその周囲。とり上げるべきテーマの多い年代。

光とともに8巻.jpg 『光とともに... (8)』 〔'05年〕

 '05(平成17)年5月刊行のシリーズ第8巻(「for Mrs」'04(平成16)年〜'05(平成17)年発表)で、主人公の自閉症児・光君は小学校5年生の冬を迎えています。
 このシリーズの第3巻で光君は小学校4年になり、作者はその後しばらく小学生の彼とその周辺を描き続けていますが、それだけ小学校高学年という年代とそれを取り巻く問題については、とり上げるべきテーマも多いのだと思います。

 このシリーズの良いところは、親や教師が、主人公を通して成長し変化していくのがよくわかるところです。
 周囲にはなかなか変わらない人もいますが、それを単なる善玉・悪玉の物語にせず、われわれをとりまく社会の問題として考えなければならないことを教えてくれるという点でも、優れていると思います。

 療育支援の具体的な方法などもわかりやすく示されていますが、巻が進むにつれて、療育の現況に対する問題提起も出てきて、作者の意欲が感じられます。
 両親も、いろいろな人々の励ましや支援を受けることで、自分の子供のことだけでなく、他者へのまなざしも変化していきますが、その両親の他の子どもへの気遣いがある事件の発見につながり、そこでは施設の閉鎖性、暴力の連鎖、問題事実をやり過ごすネグレクトといった深刻な問題が、善意の内部告発という今日的テーマと併せて描かれています。
 以前作者は「漫画にはいといろと制約がある」という発言をしていましたが、これらの描き方には、作者の描かずにはおれないという思いが感じられます。

 一方で、個性の明確化、友との別れ、異性への意識といったこの年代の子どもの世界や、子の進路を意識し始めた親同士の交流と確執も描かれています。
 一種のリベンジ・ファクターで子を受験に駆りたてる親もいれば、1年先を見通すのもたいへんな障害児の親もいる...。
 作者のそれらを包含するような視線が、そのまま、子もそれぞれに違えば親もそれぞれに違うということを認め合うことの大切さを伝えているような気がします。

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