2009年2月 Archives

「●ひ 平岩 弓枝」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●ふ フレデリック・フォーサイス」 【677】 フレデリック・フォーサイス 『戦争の犬たち

忍ぶ恋でありながらも、ねっとりした情念を滲ませる「白萩屋敷の月」。余韻もいい。

白萩屋敷の月 単行本.gif 『白萩屋敷の月―御宿かわせみ』 白萩屋敷の月 文庫旧版.jpg 文庫旧版 白萩屋敷の月 文庫新版.jpg 『白萩屋敷の月―御宿かわせみ〈8〉 (文春文庫)』 ['04年]

 「御宿かわせみ」シリーズ第8弾で、単行本の刊行は'86(昭和61)年10月。「美男の医者」、「恋娘」、「絵馬の文字」、「水戸の梅」、「持参嫁」、「幽霊亭の女」、「藤屋の火事」、「白萩屋敷の月」の8編が収められています。

 東吾はある日、兄・神林通之進の名代として青江但馬の御後室に会いに白萩屋敷へ出かけるが、香月というその女性の美しさに驚くとともに、その顔の片側を火傷の痕が蔽っていることに気づく―。

 こうした展開で始まる表題作の「白萩屋敷の月」は、東吾に、遠い昔に兄・通之進と香月の間にあったであろう互いの想いについて心を馳せる機会を与えることになりますが、話はそれだけでは終わりません。

 白萩屋敷という美しく風情のあるバックグランドに対し、この話における香月の想いの激しさには、忍ぶ恋でありながらも、その中にねっとりした女性の情念が感じられました。
 それでいて、東吾がこの経験を自らの胸に静かに収めることで、そこはかとない余韻の漂う結末となっているように思えます。
その結果、通之進は、自分の香月に対する想いは"片想い"であったと終生思い続けることになるわけですが...。

 「美男の医者」で天野宗太郎が初登場。るい、東吾の関係を軸に、るいが女主人を務める「かわせみ」の奉公人である嘉助とお吉、事件の際にタッグを組んで解決にあたる神林通之進、畝源三郎、岡っ引の長助といったレギュラーメンバーの役割やキャラクターが読者に完全に定着したところで、シリーズ前半部分の最後のレギュラーメンバーの登場といったところでしょうか。
 「美男の医者」自体は、呉服問屋の"計画倒産"の話なのですが、この頃から"計画倒産"ってあったのか。

 何だか、だんだん事件物と人情話の比率が半々になってきたみたいな...。
 大方は、はっきりこれは「人情物」と言い切れるものでもなく、「人情物」であっても事件が付帯している場合が殆どですが、「白萩屋敷の月」は、主として通之進の個人史に係る話と言えます(一応これも、"火事"という過去の事件が付随しているが)。
 このシリーズの人気作品アンケートなどでも常に上位に来る作品ですが、個人的にも好きな作品です。

 【1989年文庫化・2004年文庫新装版[文春文庫]】

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捕物帳らしさを堪能できる (やけにワケありの客が泊まる宿だなあという感じはするが)。

酸漿は殺しの口笛 単行本.gif 『酸漿(ほおずき)は殺しの口笛 (御宿かわせみ)』 酸漿は殺しの口笛 文庫旧版.jpg 文庫旧版 酸漿は殺しの口笛 文庫新版.jpg酸漿は殺しの口笛―御宿かわせみ〈7〉 (文春文庫)』 ['04年]

 単行本の刊行は'86(昭和61)年4月で、文庫本シリーズで言うと第7弾。「春色大川端」、「酸漿は殺しの口笛」、「玉菊灯籠の女」、「能役者、清太夫」、「冬の月」、「雪の朝」の6編が収められています。

 表題作の「酸漿は殺しの口笛」は、小川のほとりでいつも酸漿を鳴らしている娘がいて、「かわせみ」の老番頭・嘉助によると、彼女はかわせみに葛西から舟で野菜を売りに来ている娘ではないかということだったが、かわせみの女主人るいが女中頭のお吉と確認したところ、まさに同一人物。るいが事情を問うてみると、実は子供の時に別れた母親に捜して来ているという―。

 何かほんわかした人情話の始まりのようですが、やがて話は凄惨な殺人事件に発展し、直接の下手人は捕らえるものの、裏で糸を引く江嶋屋忠三郎という悪党は結局捕まらず、この後のシリーズで東吾らを苦しめる存在となります。

 かわせみに客として泊まっていた大山の御師(寺社付きの参詣者向け旅行代理店業者みたいなものか)が失踪したところから始まる「能役者、清太夫」なども、複数人の殺人被害者が出て、大川紋之助という能役者になりすましたやり手の悪党が絡み、この人物も一旦は捕まるが...。

 この頃の「かわせみ」シリーズは、事件がしっかり物語の中核にあり、しかも混み入った事件や連続殺人事件などが目立ち(「春色大川端」もタイトルに似ず凄惨な連続殺人事件)、犯人も相当な"プロ"だったりして、捕物帳らしさを堪能できます。
 一方で、息子が嫁を迎えたのを機に、誰にも遠慮せずに暮らしたいと江戸に来てかわせみに滞在する母親と、偶然彼女と知り合った癇癪持ちの老人との関係を描いた「冬の月」みたいな、人情話主体のものもあったりします。

 東吾とるいの恋もほどよく描かれていて、2人が何故すぐに正式の夫婦になれないのかなどについても改めて解説されています。
 東吾とるいがこの先どうなるのだろうという興味と言うか緊張感みたいなものがベースにあって、その上で、「かわせみ」を媒介に、いろいろな事件と人情話が適度なバランスで展開していくというこの頃の構図が、今思えば良かったなあ(やけにワケありの客が泊まる宿だなあという感じはするけれども)。 

 【1988年文庫化・2004年文庫新装版[文春文庫]】

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認知症の妻を介護する高齢作家の日常と、蘇る60年以上前の昭和初期の青春ロマン。

吾妹子(わぎもこ)哀し 新潮文庫.jpg吾妹子哀し (新潮文庫)』 ['06年] 吾妹子哀し.jpg 『吾妹子哀し』 ['03年] 青山光二.jpg 青山 光二 (1913‐2008/享年95/略歴下記)

 短編「吾妹子哀し」は、アルツハイマー型認知症のため記憶を失いつつある妻を介護する89歳の作家の日常を、66年前の若き日の妻との愛の記憶を蘇らせつつ淡々と描いたもので、2003(平成15)年・第29回「川端康成文学賞」受賞作ですが、作者・青山光二は1913年生まれで受賞時は90歳であり、この賞の受賞者では歴代最高齢であるとのこと。

 主人公の若き日の恋愛の真剣さが伝わってきて、かつて彼女(妻)を守って銃口の前に立てるかと自問し、「今また銃口の前に立っている。銃にこめられた弾丸はアルツハイマー型痴呆症だ」という作家の覚悟は、愛には責任が伴うという作家固有の精神性(信条)に裏打ちされているようですが、まさに究極の夫婦愛を描いたものと言えるかと思います。

 妻の失禁や徘徊に手を焼く様子を軽いユーモアを交えて描く一方、2人の間で交わされる"お医者さんごっこ"のようなセックスなども赤裸々に描かれていて、こうした事柄が何れも実体験に基づかなければ描けないものばかりであるだけに、認知症者の心の在処(ありか)や認知症者と共に歩むということはどういうことかを探るうえでも、考えさせられる面が多かったです。

 川端賞受賞後に書き下ろした併録の「無限回廊」は、妻との最後の旅行となると思われる神戸への墓参を話の枠組み(現在)として、その中で、昭和初期の妻との恋愛と結婚の成就(過去)が描かれていますが、これが意外と結構ドタバタ劇で、読んでいて面白かったです。

 三高→東大とインテリコースを歩みながらも無頼な生活を送る主人公は、経済的基盤の無い学生の身分のまま現在の妻との恋愛に陥りますが、一方で、押しかけ女房みたいな女性に翻弄され、その女性と愛の無い同棲生活みたいなことになっていて、しかもその女性がわざわざ本命の彼女のもとへ出向いて、今の関係を"ありのまま"喋ってしまうという―。

 こうした主人公の窮地を救うべく、同じく無頼の学友たちも奔走し、こうして読むと、旧制高校の掛値無しの友情もいいなあと。
 任侠小説で名を馳せた作者ですが(この作品もエンターテインメントとしても読める)、そうしたもののベースに、こうした無頼気質というか、男性同士の繋がりの世界が体験的にあるのかも。

 しかし、90歳にして凄い記憶力だなあと―。昭和初期の風俗や若者群像みたいなものが精緻かつ鮮烈に描かれています。
 一方で、ホテルに泊まりながら、ホテル内を徘徊する妻を連れ戻し、妻のオムツを換える今の自分があり、「吾妹子哀し」もそうですが、"青春のロマン"と"老年の現実"が妻という同一人物を介して1つの物語の中に納まっているという感じで、読んでいて、時間って何だろうとか、ちょっと哲学的に考えさせられたりもして。

認知症とは何か.jpg小澤 勲.jpg 「吾妹子哀し」という作品を知ったのは、「痴呆の世界」を探り続け、ガン宣告を受けながらも認知症問題について精力的に啓蒙活動をした京都の精神科医・小澤勲氏の著書『認知症とは何か』('05年/岩波新書)で紹介されていたからで、青山光二氏は昨年('08年)10月29日に95歳で逝去しましたが、小澤医師も翌月19日に肺がんのため70歳で亡くなっており、共にご冥福をお祈りしたい想いです。
                                     小澤 勲 『認知症とは何か (岩波新書)』 ['05年]

 【2006年文庫化[新潮文庫]】
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青山光二 (あおやま・こうじ)
1913(大正2)年、神戸市生れ。東京大学文学部卒。旧制三高在学中から小説を書きはじめ、東大在学中の1935(昭和10)年、同人誌「海風」を創刊する。織田作之助、太宰治ら無頼派作家と厚い友誼を結んだ。戦後は「近代文学」等に拠って創作活動をつづけ、任侠小説の分野で新境地をひらいた。1980年『闘いの構図』で平林たい子文学賞受賞、2003(平成15)年「吾妹子哀し」で川端康成文学賞を受賞。主な作品に『修羅の人』『竹生島心中』『われらが風狂の師』『母なる海の声』『美よ永遠に』などがある。2008年10月没。

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「夫婦愛」というより「人類愛」を感じた表題作。不思議な味わいがある短編集。

聖ヨハネ病院にて 上林暁.jpg 『聖ヨハネ病院にて (新潮文庫)』 上林暁.jpg 上林 暁 (かんばやし・あかつき)

 上林暁(1902‐1980/享年77)の短編集で、表題作「聖ヨハネ病院にて」の他、「薔薇盗人」「天草土産」「野」「二閑人交游圖」「小便小儈」「明月記」を収録。

 1946(昭和21)年作の「聖ヨハネ病院にて」は、重度の精神病を患い入院している妻を泊まり込みで看病する夫の話で、実際に作者の妻の繁子は1939年に発病して、何度か転院した後1946年5月に38歳で亡くなっています(「聖ヨハネ会桜町病院」は、亡くなる前年の9月から11月初めまで在院した)。

 この作品を読む限り、妻が入院するまで、主人公の「僕」はそれほど妻のことをいつも気にかけていたようには思えず、また、妻が入院してからは、眼も不自由で、自分の始末も侭ならず、汚物で衣服を汚す妻に辟易している様子さえ窺え、何でもかんでも口に入れてしまう(「僕」の弁当まで食べてしまう)妻と口論になったりしています。

 一方で、そうした妻のことを小説のネタにしている自分を嘲っているような面も窺え、妻が亡くなったら書くことがなくなってしまうことを心配し、また、そうした打算的な心配をしている自分の姿勢を自己批判していたりしています。
 そうした気が滅入るような精神的下方スパイルの中で、「僕」はある日、病院で行われるミサに出席し、そこに集う精神病者らの中で疎外感のようなものを感じながらも、「自分はいかなる基督教徒よりも基督教徒的でありたい」という思いに包まれ、そのためには、もっと妻にやさしくしてあげようと思う―。

 「神」に依らない信仰とでも言うか、眼も見えず、自分の始末もできない妻を「神」と看做し、それに尽くすことに自らの魂の救済を見出しているということになるのでしょうか。
 「神々しいまでの夫婦愛」を描いた作品とされるものですが、個人的には、「夫婦愛」というより「隣人愛」「人類愛」に近いものを感じました。

上林暁は、戦前から戦後にかけて活動した作家であり、また、志賀直哉などの系譜を引く私小説家で、同時代同系統の作家では尾崎一雄(1899‐1983)、永井龍男(1904‐1990)などがいますが、『暗夜行路』を著した志賀直哉などと異なり、長編は1作も書いておらず、創作集は全て短編集、それも、その大部分は自身や家族、友人に関することがその作品のモチーフになっていて、かなり典型的な私小説家であると言えます。

日本文学全集 31 尾崎一雄・上林暁・永井龍男.jpg日本文学全集〈31〉尾崎一雄,上林暁,永井竜男―カラー版 河出書房(1969年)

 「聖ヨハネ病院にて」は主人公の感情の浮き沈みがかなり赤裸々に吐露されていますが、他の作品はどちらかと言うと日常を淡々と描いた地味な作品が多く、読者受けよりも自分の文学的姿勢を大切にしている感じがします。

 そうした中、病いの妹のために学校の花壇から薔薇の花を盗んだ少年の話「薔薇盗人」('32年)などは寓話的なリリシズムが感じられ(この作品で川端康成の推奨を得た)、また、三島由紀夫が絶賛したという「野」('40年)には、不確定な自分の内面を見据えようとする真摯な姿勢が感じられますが、将棋などを通しての作家仲間との交遊を描いた「二閑人交游圖」('41年)には、自らを対象化した淡々とした描写の中に、明るいユーモアも感じられ、これはこれで個人的には好きな作品。

 「私小説」に対して、何となくせせこましくて面白くないものが多いというイメージがある中で、この人の作品は不思議な味わいがあり、この作品集は新潮文庫の復刻版として'93年に復刊されたものの1つでもありますが、敢えて旧字旧仮名のままであることも、味わいを深めているように思いました(「彌撒」の読み方がすぐに思い浮かばなかったが)。

《読書MEMO》
●「薔薇盗人」...1932(昭和7)年8月発表★★★★
● 「野」...1940(昭和15)年1月発表★★★☆
● 「二閑人交游圖」...1941(昭和16)年1月発表★★★★
● 「明月記」...1942(昭和17)年11月発表★★★☆
● 「聖ヨハネ病院にて」...1946(昭和21)年5月発表★★★★

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『時任謙作』から『暗夜行路』に至る経緯はわかったが、作品単体としては今ひとつ。

志賀 直哉 『和解』.jpg  和解.bmp 『和解 (新潮文庫)

 1917(大正6)年10月、志賀直哉(1883‐1971)が34歳の時に発表した中篇で、父と不和になっていた主人公の「順吉」が、次女の誕生を機に、次第に父と和解していく様が描かれていますが、志賀直哉はこの年の8月に、それまで確執のあった父親と和解しており、この作品はほぼ志賀直哉自身のことをそのままに書いた私小説と見ていいのでは。

 今回初めて読みましたが、う〜ん、そういうことだったのかと。
 父との確執から尾道に籠もり、父との葛藤をテーマに『時任謙作』という長編を仕上げようとして成らず、その後、本作にある実生活での父との「和解」を経て問題を"対象化"することが出来、それが『暗夜行路』に繋がったという時間的経緯を再確認しました。

 『暗夜行路』を読んだのはかなり以前ですが、かなり丸々"私小説"として読んでしまったような気がします。
 但し、実はどのような契機で父と対立するようになったのかといったことは、この『和解』の中にも書かれておらず、作者の個人史を知らないとよくわからない部分がある作品というのは、作品単体で見た場合、どうなのかなという気も。

 同じ年に発表された「城の崎にて」は、実生活上での「和解」の前(同年5月)に書かれたもので、まだ葛藤が続いているその心象が、小動物に投影されていたということになります(この作品も、そんな説明的なことは何も書いてない)。

 『暗夜行路』には主人公の生誕の秘密を巡る父親との確執がありますが、実際には、思想的な対立(志賀直哉は社会主義思想に共感していた部分があったが、父親は典型的な資本家だった)が両者の確執の契機として最初あったわけで、この『和解』にある、長女を喪い新たに次女を授かるという経験を経て、「思想」的確執から「生誕」を巡る確執にモチーフをコンバートしたわけだ、ナルホド。
 同時に、よりフィクション化することで、作家自身にとって描き易くなった(?)ということかも知れません。

 この『和解』は、そうした作家が一皮むけるに至った経緯を知る上では重要な作品だし、面白いと思う。但し、単体の小説としては、個人的はそれほどいいと思えず、文体は既に完成されているのだけれど、何か、見せ隠ししながら書いている感じもあって、何となくすらすら読めなかったような気がします。

 【1949年文庫化・1991年改版[新潮文庫]/1960年再文庫化[岩波文庫(『大津順吉・和解・ある男、その姉の死』)]/1960年再文庫化[旺文社文庫(『和解・城の崎にて』)]/1997年再文庫化[角川文庫]】

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主人公よりも詐欺師の"タムキン博士"と父親の"アドラー博士"が印象に残った。

この日をつかめ.jpg  『この日をつかめ (新潮文庫)』 ['71年] Saul Bellow.jpg Saul Bellow (1915-2005/享年89)

First edition cover (1956)
SeizeTheDay.jpg 44歳になるトミー・ウィルヘルムは、かつて役者志望の道を絶たれ、今は職も無く妻子とも別れ、名士の父親と同じホテルで生活しているが、部屋代の支払いにも窮し、投資につぎ込んだなけなしの金もどうなるかわからない―。

 1956年に米国の作家ソール・ベロー(Saul Bellow、1976年にノーベル文学賞受賞)が発表した小説で、主人公の危機的な一日を追いながら、人間存在の意味を問うた作品(原題は"Seize the Day")。

 踏んだり蹴ったりの主人公ですが、やっぱり中年で自活出来ないというのは、経済生活面だけでなく、精神面でキツイなあと思いつつも、あまり主人公に同情心が沸かないのは何故だろう。
 社会(俗世間)からの疎外を感じる主人公が、最後には、「この日をつかめ」という言葉をキーワードに、過去に捉われることなく、また、未来に不安を抱くことなく、"今を生きる"ことの大切さを悟るのですが、ついつい、明日は大丈夫なの?と思ってしまうのは、自分が俗っぽいからでしょうか。

 主人公のラード等への投資を仲介する"タムキン博士"という人物が大変印象に残り、「この日をつかめ」も彼の言葉なのですが、彼は実は詐欺師であり(読者にはかなり早い段階でそれがわかると思うが、主人公は疑念を抱きながらも彼に振り回される)、いかにも資本主義社会に徘徊していそうなクセモノ。
 彼の言う「この日をつかめ」は"投機"上の意味合いなのですが、主人公は詐欺師の言葉から哲学を引き出し(確かにこの詐欺師は哲学者っぽい弁を垂れる)、一方で、詐欺師になけなしの金を持っていかれたということか。

 主人公の父親の"アドラー博士"というのも、息子を世の中の敗北者と決めつけ、全く構ってやらないという、ちょっと日本にはいないタイプの父親で、志賀直哉の父親との間での葛藤などとも違って、こちらは「和解」の余地すら無い。

 この父親も俗世間の代表格であるけども、アーサー・ミラー『セールスマンの死』に出てくる、アメリカンドリームを子供に託す期待過剰の父親とも全然違い、その個人主義は凄まじく、息子さえも他人レベルと変わらない「一個人」に過ぎないという感じでしょうか(ユダヤ系ということも関係しているのか?)。

 小説として今一つ感動は出来なかったですが、"タムキン博士"と"アドラー博士"は印象に残りました(主人公よりも)。

 【1971年文庫化・1993年改版[新潮文庫]/1978年再文庫化[集英社文庫(『その日をつかめ』)]】

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原作は、マリリン・モンローと自分自身を念頭に置いて描いているように思える。

ティファニーで朝食を.jpg    ティファニーで朝食を 文庫.jpg          ティファニーで朝食を パンフレット.jpg
ティファニーで朝食を』 ['08年]/『ティファニーで朝食を (新潮文庫)』 ['08年]/映画パンフレット
First edition cover (1958)
Breakfast at Tiffany's 1958.jpg 1958年春に出版された米国の作家トルーマン・カポーティ(Truman Capote, 1924-1984/享年59)の作品(原題は"Breakfast at Tiffany's")ですが、村上春樹氏の翻訳は新潮文庫旧版('68年)の龍口直太郎訳と比べるとかなり読みやすいのではないかと思いました。

 カポーティが小説家として一番ピークにあった頃の作品であるというのがよくわかり、駆け出し作家である「僕」が、捉えどころの無い奔放さを持ったホリー・ゴライトリーという女性に引き摺られていく感じが絶妙のタッチで描かれていて、いよいよホリーが去っていくといったやや気の滅入る場面でも、「彼女の出発する土曜日には、街はスコール顔負けの激しい雨にみまわれた。鮫が空中を泳げそうなぐらいだったが、飛行機が同じことをするのは無理だろう」なんて面白い表現があったりして、都会的というか、才気煥発というか、この辺りも村上氏と波長が合う部分なのだろうなあという気がします。

 '61年にオードリー・ヘプバーン主演で映画化されたため、お洒落な都会劇というイメージが強いように思いますが(「麗しのサブリナ」ではまだ控えめだったジバンシーとの衣装提携が、この作品ではまさに"全開"という感じだったし)、そうしたファッション面でのお洒落というのと、この原作のセンスはちょっと違うような...。

 Marilyn Monroe and Truman Capote
Marilyn Monroe and Truman Capote.jpg 映画化に際してトルーマン・カポーティは、主人公のホリーをマリリン・モンローが演しるのが理想と考え、またモンローを想定して脚本を書くように脚本家にも依頼したものの、モンローの起用は彼女の演技顧問だったポーラ・ストラスバーグに反対されて見送られ、結局、ヘプバーンがホリーを演じることになったというのはよく知られている話ですが、個人的には、この小説を書き始めた段階から、カポーティはモンローと自分自身を念頭に置いて書いているように思えます(モンローの気質を想定して読むと、スッキリとホリーのキャラクターに嵌るような気がする)。
 実際、ヘップバーンがティファニーの前でパンを食べるという映画の冒頭シーンで(タイトルのままだなあ)、観ていたカポーティが椅子からずり落ちてしまったという逸話があるぐらいだから、相当イメージ違ったのだろうなあ。

 トルーマン・カポーティは、ノーマン・メイラーと並んで、モンローに袖にされた"片思い組"だったと思うのですが(彼は背が低くて、モンローの好みの対象外だった)、この作品で世間の常識に捉われない天真爛漫な女性を生き生きと描く一方、その相手をする作家である男(要するに自分自身)を、彼女に振り回されるばかりの情けない存在として、やや自嘲的、乃至は被虐的と思えるまでに描いています(この点も、村上春樹氏が指摘するように、映画で作家を演じたジョージ・ペパードが、しっかりとホリーを受け止めているのとは異なる)。
BREAKFAST AT TIFFANY'S.jpg
ティファニーで朝食を dvd.jpg 結局、小説のホリーは最後ブラジルかどこかへ行ってしまうのですが、この結末はむしろモンローに相応しく、映画では、名無しの飼い猫を一旦放してまた引き戻す点はほぼ同じですが、海外への高飛びは無く、それまで自我むき出しで尖がっていたホリーが、最後は人間の優しさを感じるちょっと普通の女性になったかなあという、オードリー・ヘプバーンに相応しい結末だったように思います。

映画"Breakfast at Tiffanys"ポスター(輸入版)/「ティファニーで朝食を [DVD]

 「ムーン・リバー」はヘンリー・マンシーニの最大のヒット曲と言ってよく、映画としてはいい作品だと思いますが(ミッキー・ルーニー演じるユニオシなる奇妙な日本人大家はいただけないが)、もしかして、カポーティはモンローが、この映画のヘプバーンのように自分の懐へ飛び込んでくることを夢想していたのではないかとも思ったりして。

 村上氏も「映画は映画として面白かった」としながらも、新訳の刊行にあたって、表紙に映画のスチールだけは使わないで欲しいと要望したそうですが(新潮文庫旧版ではモロ、映画スチールを使っている)、映画と切り離して読んで欲しいというのはよくわかるし賛成ですが、だからといって"ティファニーブルー"のカバーにするというのもどうなのでしょうか(出版社側の意向だと思うが)。
 この、言わば"高級コールガール"を主人公にした小説及び映画が、"高級宝石店"ティファニーの知名度アップに大いに寄与したことは間違いないと思うのですが、それはもう過去の事。今回の場合は出版社側がタイアップ効果を狙っているということなのか。

「ティファニーで朝食を」●原題:BREAKFAST AT TIFFANY'S●制作年:1961年●制作国:アメリカ●監督:ブレイク・エドワーズ●製作:マーティン・ジュロー/リチャード・シェパード●脚本:ジョージ・アクセルロッド●撮影:フランツ・プラナー●音楽:ヘンリー・マンシーニ●原作:トルーマン・カポーティ●時間:114分●出演:オードリー・ヘプバーン/ジョージ・ペパード/ミッキー・ルーニー●日本公開:1961/11●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:高田馬場・ACTミニシアター(85-11-03) (評価:★★★☆)●併映:「めぐり逢い」(レオ・マッケリー)

fred.jpg cat.jpg

HIM: Holly (Jenovia), I'm in love with you.
ME: So what?
HIM: So WHAT? SO PLENTY! I love you. You belong to me.
ME: No. People don't belong to people.
HIM: Of course they do.
ME: Nobody is going to put me in a cage..
HIM: I want to love you.
ME: IT'S THE SAME THING.
HIM: No, it's not Holly! (Jenovia)
ME: I'm not Holly, I'm not Lulamae either. I don't know who I am.
I'm like cat here. A no name slob. We belong to nobody and nobody belongs to us. We don't even belong to each other.
Stop the cab.
What do you think?
This ought to be the right place.
For a tough guy like you--Garbage cans, rats galore.
(MEOW)
SCRAM!
I SAID TAKE OFF! BEAT IT!
Lets go.
(Thunder)
HIM: Driver, pull over here.
You know whats wrong with you, Miss Whoever-You-Are?
You're CHICKEN. YOU GOT NO GUTS. You're afraid to say "O.K. life's a fact."
People DO fall in love. PEOPLE DO BELONG TO EACH OTHER, BECAUSE THATS THE ONLY CHANCE ANYBODY'S GOT FOR REAL HAPPINESS.
You call yourself a free spirit, a wild thing.
You're terrified someone is going to stick you in a cage.
Well Baby, you're already in that cage.
You built it yourself.
And it's not bounded by Tulip, Texas or Somaliland.
It's wherever you go.
Because no matter where you run, you just end up running into yourself.
END SCENE.

【1968年文庫化[新潮文庫(龍口直太郎訳)]/2008年再文庫化[新潮文庫(村上春樹訳)]】

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"グレート"は反語である前にその通りの意味もあったのではないかと。

グレート・ギャツビー.jpg                    グレート・ギャツビー 野崎訳.jpg
愛蔵版グレート・ギャツビー』 『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』   『グレート・ギャツビー (新潮文庫)』(野崎孝:訳)

First edition cover (1925)
The Great Gatsby.jpg 1920年代初頭、米国中西部出身のニック・キャラウェイは、戦争に従軍したのち故郷へ帰るも孤独感に苛まれ、証券会社で働くためにニューヨーク郊外ロング・アイランドにある高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越してくるが、隣の大邸宅では日々豪華なパーティが開かれていて、その庭園には華麗な装いの男女が夜毎に集まっており、彼は否応無くその屋敷の主ジェイ・ギャツビーという人物に興味を抱くが、ある日、そのギャツビー氏にパーティに招かれる―。

 1925年に出版された米国の作家フランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald、1896‐1940/享年44)の超有名作品ですが、ニックがパーティに出てみると、参加者の殆どがギャツビーについて正確なことを知らず、ニックには主催者のギャツビーがパーティの場のどこにいるかさえわからない、しかし、たまたま自分の隣にいた青年が実は...なんてところから、ニックとギャツビーの交遊が始まるという初めの方の展開が単純に面白かったです。

 しかし、この小説、中間部分は今一つ波に乗れなかったというか、自分が最初に読んだのは野崎孝(1917‐1995)訳『偉大なるギャツビー』でしたが、今回、翻訳のリズムがいいと評判の村上春樹氏の訳を読んでも、若干の中だるみ感は拭えませんでした(金持ち同士の恋の鞘当てみたいな話が続き、その俗っぽさがこの作品の持つ1つの批判的テーマであると言えるのだが...)。
 但し、ギャツビーという人物の来歴と、彼の自らの心の空洞を埋めようとするための壮大な計画が明かされていく過程は、やはり面白いなあと―。
 そしてラスト、畳み掛けるようなカタストロフィに―と、小説としての体裁もきっちりしていることはきっちりしています。

 ギャツビーにはモデルがいるそうですが、ニックとギャツビーのそれぞれがフィッツジェラルドの分身であり(ついでに言えば、妻に浮気されるトム・ブキャナンも)、そしてフィッツジェラルド自身が美人妻ゼルダ(後に発狂する)と高級住宅地に住まいを借りてパーティ漬けの派手な暮らしをしながら、やがて才能を枯渇させてしまうという、華々しさとその後の凋落ぶりも含めギャツビーと重なるのが興味深いですが、これはむしろ小説の外の話で、ニックの眼から見た"ギャツビー"の描写は、こうした実生活での作者自身との相似に反して極めて冷静な筆致で描かれていると言ってよいでしょう。

 新訳というのは大体読みやすいものですが、村上訳は、ギャツビーがニックを呼ぶ際の「親友」という言葉を「オールド・スポート」とそのまま訳したりしていて(訳していることにならない?)、日本語でしっくりくる言葉がなければ、無理して訳さないということみたいです(柴田元幸氏との対談『翻訳夜話』('00年/文春新書)でも、そうした"ポリシー"が語られていた)。但し、個人的には、「オールド・スポート」を敢えて「親友」と訳さなかったことは、うまく作用しているように思いました。

 そうした意味では、タイトルを『グレート・ギャツビー』としたことも、また村上氏らしく、この"グレート"というのは反語なのだなあと。

 但し、野崎訳も'89年の「新潮文庫」改訂時に『グレート・ギャツビー』に改題していて、故・野崎氏に言わせれば、フィッツジェラルドは、親から受け継いだ資産の上に安住している金持ち階級を嫌悪し(作中のブキャナン夫妻がその典型)、自らの才覚と努力によって財を成した金持ち(ギャツビーがこれに該当)には好意と尊敬の念を抱いていたとのこと('74年版「新潮文庫」解説)。だから、"グレート"というのは反語である前に、敬意も込められていると見るべきなのでしょう。
                                    
日はまた昇る.jpg 村上氏はこの作品を"生涯の1冊"に挙げており、同じ"ロスト・ジェネレーション"の作家ヘミングウェイ『日はまた昇る』(この作品とシチュエーションが似ている面がある)より上に置いていますが、傑作であるには違いないものの、個人的にはそれほどダントツにスゴイ作品なのかなあという気もしてしまいます。 

 【1957年文庫化[角川文庫(大貫三郎訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[早川文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[新潮文庫(野崎孝訳『偉大なるギャツビー』)・1989年改版(野崎孝訳『グレート・ギャツビー』)]/1978年再文庫化[旺文社文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1978年再文庫化[集英社文庫(野崎孝訳『偉大なギャツビー』]/2006年新書化[中央公論新社・村上春樹翻訳ライブラリー(『グレート・ギャツビー』]】

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アスペルガー症候群の"啓蒙書"としては星4つ、SF小説としては星3つ。

くらやみの速さはどれくらい1.jpgくらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ)」 ['04年] くらやみの速さはどれくらい2.jpg 「くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4) (ハヤカワ文庫SF)」 ['08年]

 自閉症の幼児期治療が可能になった近未来、自閉症の最後の世代である35歳のルウは、製薬会社で自閉症者特有の能力を仕事に活かし、仕事仲間の自閉症者のほかに通っているフェンシング教室にも仲間がいて、好きな女性もいるという順調な日々を送っていたが、ある日、会社の新任上司からルウ達に、新開発された自閉症治療法の実験台になるよう申し渡しがあった―

アルジャーノンに花束を.jpg 2003年に書かれた本書は、ダニエル・キイス『アルジャーノンの花束を』('78年/早川書房)の"21世紀版"という触れ込みで、『アルジャーノン』と同じネビュラ賞というSFの賞を受賞した作品でもあるとのこと(翻訳者も『アルジャーノン』と同じ小尾美佐氏)。

夜中に犬に起こった奇妙な事件.jpg 著者はSF(スペース・オペラ)作家ですが、自閉症の子を持つ母親でもあるそうで、自閉症者の認知構造やそのパターンが、主人公のルウ(自閉症スペクトラムの1種、アスペルガー症候群と見るべき)の思考形態を通じて丁寧に描かれており、そうした意味ではむしろ、SFの形態を借りた"啓蒙書"ともとれ、ミステリの形態を借りて同様の試みをしたマーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』('03年/早川書房/小尾美佐:訳)に近い印象を持ちました。

 但し、SF乃至ミステリとしては、『アルジャーノンの花束を』に比べるとどうかなあと。
 ルウの日常を通じての思考形態に係る記述が多く、起承転結のバランスがイマイチではないかと思い読んでいましたが、後半、手術を受けることで自閉症ではなくなる"自分"とは一体何かというテーマが浮き彫りになり、ああ、ここで『アルジャーノン』とテーマが重なるのかと思った次第。
 ところが、その後に思わぬ結末が待ち受けていて、ショッキングではあるけれども、技法的には『アルジャーノン』と同じじゃないかと(だから、"21世紀版『アルジャーノンの花束を』"なのか、と得心)。

 個人的には、結末が描き込み不足のように思え、中途半端。例えば、同じ手術を受けたペイリは具体的にどうなったのかとか、気になりました。
 そこまで書かないのなら、いっそ手術直後の時点で話を終わりにした方が、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」('71年/米)ではないが、インパクトは大きかったかも(『アルジャーノン』と同じじゃないかという批判をかわすために書き加えたのかと勘繰りたくなる)。

 自閉症(アスペルガー症候群)の"啓蒙書"という観点から見れば星4つ、SF乃至ミステリとしては星3つという感じです。
 タイトル(原題:"The Speed Of Dark")はいい(宇宙が膨張したスピードは光より速かったわけだ)。

 【2008年文庫化〔ハヤカワ文庫〕】 

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SFと言うよりヤングアダルト小説としての色合いが強いかも。

アルジャーノンに花束を.jpg 「アルジャーノンに花束を」 (1978/07 早川書房/1989/04 新装改訂版) Flowers for Algernon.bmp "Flowers for Algernon"

 大人になっても幼児ほどの知能しか持たない主人公のパン屋の店員チャーリーに、科学者から知能指数を向上させる手術話がもたらされ、彼は喜んで脳手術を受け、やがて「天才」へと変貌していく。一方、同じ手術を受けた白ネズミのアルジャーノンは既に天才ネズミと化していたが、ある時期からその知能は急速に後退していく―。

 1966年に米国の作家ダニエル・キイスが発表した(元となった中編は1959年に書かれた)あまりにも有名なSF小説であり、「超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫った」もので、個人的に読んだのは随分以前ですが、それでもブームの後で30代の時だったと思います。
 もし、もっと若い頃、自分とは何かとかいったことを真面目に考えているような時期にこの本を読んだら、もっと衝撃を受けていたかも知れませんが、それでも今もって傑作であることには違いないと思います。

ハツカネズミと人間.jpg あのアイザック・アシモフが「どうしてこんな傑作が書けたのか」と訊ね、それに作者が「もし、あなたに、どうして私があの作品を書けたのかわかったら教えてくれませんか」と答えたという話はよく知られていますが、いつ頃のことだろう。
 スタインベック『二十日鼠と人間』からも想を得ているということを最近知りましたが、チャーリーとアルジャーノンの相似形、大男レニーと二十日鼠の相似形という両者の構成上の類似はなるほどと思わせるものの、やはりこの作品のプロットは稀有のオリジナリティを有しており、むしろプロット的な部分よりもモチーフや詩的な感性の部分で『二十日鼠と人間』に通じるかも。
24人のビリー・ミリガン下.jpg24人のビリー・ミリガン上.jpg
 結局、作者はこの衝撃的なデビュー作以降、この作品に匹敵するフィクションはものにすることなく、『24人のビリー・ミリガン』といったノンフィクションに軸足を移すのですが(90年代に入ってまた小説を書き始めたが)、個人的には、ノンフィクションであるところの『24人のビリー・ミリガン』の中にはまだ作者のオーサーシップ(作家性)が滲み出ていて、ノンフィクションとしてどうなのか?という疑念すら覚えるくらいです(この小説の作者であるだけに)。

天才.jpg チャーリーは「天才」になったとされていますが、宮城音弥『天才』(岩波新書))流に言えば、「能才」ということであり、「能才」になったからといって、歴史に名を残すような偉業を果たせるわけではなく、専門的な研究に勤しみ、高度な科学論文を何本か残すだけです。
 チャーリーが超知能を得て成し得たのは、家族や友人など人との絆の再構築であり、その最大のイベントが、異性との接合であるというのが、SFでありながら、その部分において非常にリアリティがあるように思えました。
 男性にとって、性的に一人前になって「男性」として異性から認められることは、アイデンティ確立の重要な要素なのだなあと(結果として、作品全体が、SFというよりヤングアダルト小説としての色合いが強いものになったとも言えるのだが)。
進化しすぎた脳 中高生と語る〈大脳生理学〉の最前線.jpg
 SFとしての設定自体は、全くのフィクションとして最初は読みましたが、池谷裕二氏(『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス))によれば、頭の良くなる薬は既にあるらしく、ただやはり副作用がわからないので実用化されないそうな。

 最近は年齢のせいか、むしろボケる方を連想してしまい、アルツハイマーを宣告された時って、似たような状況かも知れないと思ったりして...。
 (綾小路きみまろのネタに、「人間なんてみな同じ。おしめで始まりおしめで終わる。あ〜、おしめいだ〜」というのがあったのを思い出した。)

 【1999年文庫化[ダニエル・キイス文庫]】

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「裏窓」×「めまい」+α。B級と言う人も多いが、個人的には好きな「ボディ・ダブル」。

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BODY DOUBLE.jpgBODY  DOUBLE.jpg B級映画俳優のジェイク(クレイグ・ワッソン)は、ドラキュラ映画の主演で棺に入るシーンで閉所恐怖症を起こしてクビになり、失意のまま帰宅したところ、同棲中の恋人が男と情事にふけつているという様。家は彼女のものであり、意気消沈のまま家を出た彼は、あるオーディション会場で、サム(グレッグ・ヘンリー)という男と知り合い彼の家へ招かれる。そこはモダンな豪邸で、サムはジェイクに留守中の家の管理を頼むとともに、望遠鏡越しに見える魅惑的な隣人(デボラ・シェルトン)の存在を教える―。

 ヒッチコックの「裏窓」('54年)と「めまい」('58年)を足して2で割ったような作品ですが、そうしたこともあって評価の割れる作品かも。

DRESSED TO KILL Angie Dickinson.jpg殺しのドレス.jpg デ・パルマ監督の同系統のサスペンス作品では「殺しのドレス」('80年)が知られてますが、確かに面白い作品で、美術館でのなめまわすようなカメラワークや、「サイコ」を意識したアンジー・ディキンソンのシャワー場面(代役がやったらしい)などが印象的でしたが、但し、観ている間はすごくのめり込まされるのですが、その分、終わってみるとな〜んだみたいな面もややありました(評価は星4つ。映画全体としては決して悪くなく、むしろ佳作の部類)。
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 ただ個人的には、「ボディ・ダブル」の方が、観終わったあとの印象も含めると「殺しのドレス」より良かったように思え、他の同監督の作品と比べても、最も自分の好みに近い作品です。

Melanie Griffith.jpg 意図的にあまり有名ではない俳優を使って撮っていて(メラニー・グリフィスも当時まだ売り出し中)、エロチックなシーンもふんだんにあり、この映画自体もB級の雰囲気を醸していますが、そこが却ってキッチュでいい。

Melanie Griffith 「ボディ・ダブル」より

 ヒッチコックへのオマージュを込めながらも、ミステリとしてのオリジナリティは十分にあるように思われ、個人的には「裏窓」×「めまい」+アルファという評価ですが、観る人によっては、最後が"マイナス"になる人もいるかも。

ワーキング・ガール チラシ.jpgワーキング・ガール 86米.jpg  映画後半に出てくるポルノ女優を演じたメラニー・グリフィスは、ヒッチコック監督作品「鳥」('63年)のヒロイン役を演じたティッピ・ヘドレンの娘で、この作品で彼女は演技開眼し、マイク・ニコルズ監督の「ワーキング・ガール」('88年)では、シガニー・ウィーバー、ハリソン・フォードらに伍する演技で、アカデミー主演女優賞にノミネートされています。
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 ウォール街の投資銀行のM&A部門で働く秘書(メラニー・グリフィス)が、尊大な女性上司(シガニー・ウィーバー)がスキー休暇中に骨折し職場復帰するまでの間に、上司の愛人(ハリソン・フォード)と共に進行中の合併話を期せずして進行させることになるというサクセス・ストーリーですが、メラニー・グリフィス、シガニー・ウィーバー共にいい味出していて、映画自体もまあまあ楽しめました。
 そう言えば"ワーキング・ガール"というタイトルには「キャリア・ウーマン」の他に「娼婦」という意味もあります。

ヒチコック監督「めまい」より
Kim Novak.jpg映画「めまい」1958 より.jpg 「ボディ・ダブル」の作品ベースとなっているヒッチコックの「裏窓」('54年)「めまい」('58年)では、(一般的には「裏窓」は評価が安定していて、「めまい」の方は評価の割れることが多いように思われるものの)個人的には「めまい」の方が優れているように思うのですが、この「めまい」という作品はそのカメラワークにおいて、ズームアウトしながらカメラを前方へ動かすことで被写体のサイズが変わらずに広角になる映し方(逆ズーム)で墜落感を表す手法や、カメラが被写体の周りを回る映し方(360°パン)でキスシーンなどの陶酔感を表す手法などが用いられていることでも有名で、デ・パルマ監督もこの作品でそうした技法をしっかり採り入れています。
 キム・ノヴァクの妖しげな魅力が印象に残った映画でもありました。



三軒茶屋中央劇場.jpg「ボディ・ダブル」●原題:BODY DOUBLE●制作年:1984年●制作国:アメリカ●監督・製作:ブライアン・デ・パルマ●脚本:ロバート・J・アヴレッチ/ブライアン・デ・パルマ●撮影:スティーヴン・H・ブラム●音楽:ピノ・ドナッジオ●時間:114分●出演:クレイグ・ワッソン/グレッグ・ヘンリー/デボラ・シェルトン/メラニー・グリフィス●日本公開:1985/02●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:三軒茶屋映劇 (85-09-15)(評価:★★★★☆)●併映:「聖女アフロディーテ」(ロバート・フュースト)/「ブレスレス」(ジム・マクブライド)
三軒茶屋中央劇場(1952年オープン)。同系列の「三軒茶屋映劇」(1925年開業)はこの建物の裏手にあったが(現「サンタワーズビル」、1992(平成4)年3月13日閉館。

「殺しのドレス」●原題:DRESSED TO KILL●制作年:1980年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ブライアン・デ・パルマ●製作:ジョージ・リットー●撮影:ラルフ・ボード●音楽:ピノ・ドナッジオ●時間:114分●出演:マイケル・ケイン/アンジー・ディキンソン/ナンシー・アレン/キース・ゴードン●日本公開:1981/04●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:テアトル吉祥寺 (86-02-15)(評価:★★★★)●併映:「デストラップ 死の罠」(シドニー・ルメット)/「日曜日が待ち遠しい!」(フランソワ・トリュフォー)/「ハメット」(ヴィム・ヴェンダース)

新宿アカデミー.jpgワーキング・ガール .jpg「ワーキング・ガール」●原題:WORKING GIRL●制作年:1988年●制作国:アメリカ●監督:マイク・ニコルズ●製作:ダグラス・ウィック●脚本:ケヴィン・ウェイド●撮影:ミハエル・バルハウス●音楽:カーリー・サイモン●時間:115分●出演:ハリソン・フォード/シガニー・ウィーバー/メラニー・グリフィス/アレック・ボールドウィン●日本公開:1989/05●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:新宿アカデミー (89-07-08)(評価:★★★☆)
新宿アカデミー (1975年12月「第一東亜会館」新装に伴い2Fにオープン) 2009(平成21)年11月30日閉館
 
 
 

ヒューマックスパビリオン 新宿歌舞伎町.jpgめまい パンフ.jpg「めまい」●原題:VERTIGO●制作年:1958年●制作国:アメリカ●監督・製作:アルフレッド・ヒッチコック●脚本:アレック・コペル/サミュエル・テイラー●撮影:ロバート・バークス●音楽:バーナード・ハーマン●原作:ピエール・ボワロー/トマ・ナルスジャック「死者の中から」●時間:128分●出演:ジェイムズ・スチュアート/キム・ノヴァク/バーバラ・ベル・ゲデス/トム・ヘルモア/ヘンリー・ジョーンズ/レイモンド・ベイリー/エレン・コービイ/リー・パトリック●日本公開:1958/10●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:歌舞伎町シネマ1(84-03-31)(評価:★★★★) 
歌舞伎町シネマ1・歌舞伎町シネマ2 1985年、コマ劇場左(グランドオヲデオンビル隣り)「新宿ジョイパックビル」(現「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)2Fにオープン→新宿ジョイシネマ3・新宿ジョイシネマ4。1997(平成9)年頃閉館。

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危うい偶然に支えられた主人公のブレークスルー。何と言ってもデ・ニーロの演技。

タクシードライバー1.jpgタクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]タクシードライバー パンフレット.jpg パンフレット

タクシードライバー2.jpg 海兵隊上がりの不眠症の男トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)がタクシードライバーの仕事に就く場面から始まるこの映画は、ニューヨークという大都会の中で、運転手仲間ともうちとけず、女性(シビル・シェパード)にもフラれ、孤独に生きる彼が、社会に対する漠たる憤りや自らの無力感、虚しさを募らせ、徐々に精神が病んでいく様が見事に描かれていたように思います。

td1.jpg td2.jpg TD3.jpgやがて彼は、独自の腐敗浄化計画のようなものに傾倒し、自らの身体を鍛え、銃器を購入し、まず、彼が偽善的だと感じた大統領候補の暗殺を図るも果たせず、今度は、たまたま知り合った少女(ジョディ・フォスター)がヒモ男(ハーヴェイ・カイテル)に囲われている、腐敗と搾取に満ちた売春宿を襲撃して、その結果、街のヒーローになる―。

タクシードライバー5.jpg 「大統領候補の暗殺」と「売春窟の掃討」という行動が、トラヴィスの中では同じベクトル上にあるというのが、必ずしも説明的に描かれているのではないのに観ていてよくわかるというのが、この映画のスゴイところかも。
 「大統領候補の暗殺」を果たしてしまえば、彼は「凶悪犯」になっていたわけで、それが、最終的には「ヒーロー」になってしまうというある意味の逆説が、鮮やかに描かれているように思えました。

 近年は日本でも、本来は1人で行う自殺行為が自己顕示的な形に置き代わって周囲を巻き込んだと言えるのではないかと思われるタイプの犯罪が見られるようになりましたが、「売春窟の掃討」を果たした彼が拳銃自殺をイメージしている(ように見えた)場面には、こうした行為の予兆的なものを感じます。

Taxi Driver (Martin Scorsese).jpg しかし、銃弾が尽きていたためトラヴィスは自殺もせず、結果として生き残り、以前と同じようにタクシーで街を流しますが、前に自分のことをフッた女性(シビル・シェパード)をたまたま客として乗せても、ゆったりとした気持ちで彼女を迎えることができる―。

 1人の男のレベルで見れば、ある種のブレークスルー映画であり"ハッピーエンド"になっているわけですが、そこに至るまでに、「大統領候補の暗殺」の失敗と「自殺」の未遂という2つの偶然があったというのが、いかにも危ういのではないでしょうか。

タクシードライバー3.jpg この作品はアカデミー賞の作品賞や主演男優賞などにノミネートされましたが、結局どの賞も獲っていないのが意外で(デ・ニーロは'80年の「レイジング・ブル」で主演男優賞を受賞)、「タクシードライバー」におけるデ・ニーロの演技について故・淀川長治が当時、「ああいう演技をするにはとてつもない集中力が必要なはず」と言っていたのが印象的でした。

 共演のジョディ・フォスターは後にアカデミー主演女優賞を2度受賞するまでの女優になっていますが、彼女も、この作品でのデ・ニーロの演技を見て "演技開眼"したと述べています(当時まだ13歳だったのだが)。


タクシー・ドライバー チラシ.jpg早稲田松竹.jpg「タクシードライバー」●原題:TAXI DRIVER●制作年:1976年●制作国:アメリカ●監督:マーティン・スコセッシ●製作:マイケル・フィリップス/ジュリア・フィリップス●脚本:ポール・シュレイダー●撮影:マイケル・チャップマン●音楽:バーナード・ハーマン●時間:114分●出演:ロバート・デ・ニーロ/シビル・シェパード/ジョディ・フォスター/ハーヴェイ・カイテル/ピーター・ボイル/アルバート・ブルックス/マーティン・スコセッシ/ジョー・スピネル/ダイアン・アボット ●日本公開:1976/09●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:早稲田松竹(77-11-05)(評価:★★★★★)●併映「アメリカングラフィティ」(ジョージ・ルーカス)

早稲田松竹 (1951年封切館としてオープン、1975年からいわゆる「名画座」に)

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ストレートに感動したが、神父の頼みは、いくら相手と強い友情で結ばれているとは言え、酷すぎるのでは?

汚れた顔の天使ポスター.jpg 汚れた顔の天使1.jpg 汚れた顔の天使5jpg.jpg 「汚れた顔の天使 特別版 [DVD]
ANGELS WITH DIRTY FACES 1938 TRAILER

汚れた顔の天使4.jpg 幼い頃に不良仲間だったロッキー(ジェームズ・キャグニー)とジェリー(パット・オブライエン)だが、ロッキーは、2人でやった盗みの罪を自分1人で被ったことから転落の道を辿り、今やいっぱしのギャングとして、街の不良少年のヒーローとなっていた―。

 ある日、刑務所を出所したばかりのロッキーは、今では神父となって貧しい少年達にスポーツを教えているジェリーを訪ね、旧交を温めるも、一方で、金を巡るトラブルで悪徳弁護士(ハンフリー・ボガート)を殺し、警官との大立ち回りの末に逮捕され、裁判で死刑宣告を受ける―。

汚れた顔の天使3.jpg 自らが死刑なるというのに平然としているロッキー。このままロッキーにギャングに相応しい堂々とした死に方をされては、少年達がますます彼を敬愛することになるであろうことを危惧したジェリーは、ギャングらしく死のうとするロッキーに対し、全く逆の行動を取るよう最後の頼みを託す―。

 ストレートに感動しました。ちょっと甘い感じもある作品(強面のギャング役で鳴らしたですジェームズ・キャグニーがこの役を受けるかどうか当初は危惧された)ですが、キャグニーがギャングぶりを発揮する部分については犯罪映画としてサスペンスフルに描かれていて(何せ、あのハンフリー・ボガートが、裏切り者としてキャグニー殺されてしまうぐらい)、ギャング映画としてのリアリティが、物語に厚みを持たせているように思いました。

 でも、ちょっと冷静になって考えると、神父がロッキーに託した願いというのは、ロッキーにとって、自分のように誤った道を歩むことのないようにという子供達へのメッセージになるのかも知れないですが、同時に、自ら人生を全否定せしめるようなものであり、それを受ける側(ロッキー)もともかく、頼む方(神父)も、いくら相手と強い友情で結ばれているとは言っても、よくこんな酷なことを頼んだなあという感じも。

 結局、ロッキーは刑吏らにも嘲られながら死んでいくわけで、死に行く者に対してこんなキツイお願いはないだろうなあと。
 神父は、いつか自分が面倒を見ている子供達が立派な大人になった時に、ロッキーの最期についての真実を話してあげるべきでしょうね。

「汚れた顔の天使」●原題:ANGEL WITH DIRTY FACE●制作年:1938年●制作国:アメリカ●監督:マイケル・カーティス●製作:サミュエル・ビショフ●原案:ローランド・ブラウン●脚本:ジョン・ウェクスリー/ウォーレン・ダフ/ローランド・ブラウン●撮影:ソル・ポリート●音楽:マックス・スタイナー●時間:98分●出演:ジェームズ・キャグニー/パット・オブライエン/ハンフリー・ボガート/アン・シェリダン/ジョージ・バンクロフト●日本公開:1939/11●配給:ワーナー・ブラザーズ(評価:★★★★)

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自殺をする人というのは、自分で自分が自殺するという「脚本」を書いているのだなあと。

鬼火dvd.jpg 「鬼火 [DVD]」 鬼火.jpg 「鬼火 [DVD]」  ドリュ・ラ・ロシェル『ゆらめく炎』2.jpg ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル 「人間の文学〈第8〉ゆらめく炎 (1967年)

LE FEU FOLLET (輸入版DVD)
LE FEU FOLLET.bmp アルコール中毒で治療院に入院し、死にとりつかれたアラン(モーリス・ロネ)という男の、彼が自殺に至るまでの最後の48時間を追った作品。
 原作は、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの『ゆらめく炎』('80年/河出書房新社)で、この原作者自身も自殺しています。

鬼火 ポスター.jpg アランは、治療院を一時出てパリに行き、旧友と再会したりしますが、彼らはあまりに凡庸なマイホーム主義の中に自己を埋没させていて、彼はその凡庸さを嫌悪します。
 或いは、かつての恋人エヴァ(ジャンヌ・モロー)の場合だと、彼を受け容れはするものの、彼女自身が麻薬漬けの退廃生活に陥ってしまっていて、やはり、アランに生き方の指針を示すようなものではありませんでした。

Le Feu follet2.jpg 彼の厭世観と孤独は深まるばかりで、医者に禁じられているアルコールにも手を出し、そうしながらも、昔馴染みのソランジュ(アレクサンドラ・スチュワルト)が催す晩餐会に出たりもしますが、誰も彼の話すことを理解しようとはせず、一層疎外感を募らせるだけで、この映画の登場人物で最もアランのことを理解していると思われるソランジュさえも、「気の毒な人」という感じでアラン見送るほかありません。

 アランは晩餐会の翌朝、治療院に戻り、読みかけのフィッツジェラルドの本を読み終えると、ピストルで自分の人生の幕を静かにおろします。
 「僕は自殺する。君達も僕を愛さず、僕も君達を愛さなかったからだ。だらしのない関係を緊め直すため、君達のぬぐいがたい汚点を残してやる」と書いた手紙を残し。

Le Feu follet3.gif アランが自殺したのは7月23日で、これは冒頭の治療院の場面で壁の鏡に書かれていた日と同じであり、彼は最初から自殺を決意していたことがわかります。

 確かにアランの抱える虚無感は根深い。但し、この作品を観て先ず思ったことは、自殺をする人というのは、自分で自分が自殺するというストーリーの「脚本」を書いているという面があるのではないかということです。
 この映画ぐらい、そのことがよくわかる映画は無く、個人的には、もしも自殺を考えている人がこの映画を観たら、逆に踏みとどまるのではないかという気もします。

LE FEU FOLLET1.bmp エリック・サティ(1866-1925)のピアノが、淡々とした描写を自然に繋いでいて、時にそれは死への甘美なる誘いを醸しているようにも思えます。
 モーリス・ロネ(1927-1983/享年55)の抑制の効いた演技も素晴らしく、アランという複雑な性格の主人公を、驚異的な集中力をもって演じていたように思います。

 今思うに、アランの純粋さは、「シゾイド」(統合失調質)型の人格の特徴と一致するかも。
 あまりに純粋過ぎて、「世間」と妥協することでできない気質であるともとれます。

鬼火パンフ.jpg ただ、「アル中」であり「シゾイド」であるとなると、アランのケースは何か特殊なもののように思われそうですが、飲み友達は多くいても(アランはかつては社交会で鳴らした存在だった)、真に価値観を共有したり、心を通わせ合ったりする友人はいないという点では、アランの孤独は、現代人の孤独に通じるものがあるように思います。

「鬼火」 パンフレット

文芸坐.jpg「鬼火」●原題:LE FEU FOLLET●制作年:1963年●制作国:フランス●監督・脚本:ルイ・マル●撮影:ギスラン・クロケ●音楽:エリック・サティ●原作:ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル「ゆらめく炎」●時間:108分●出演:モーリス・ロネ/ベルナール・ノエル/ジャンヌ・モロー/アレクサンドラ・スチュワルト●日本公開:1977/08●配給:フランス映画社●最初に観た場所:池袋文芸坐 (78-02-20)(評価:★★★★★)●併映:「ローマに散る」(フランチェスコ・ロージ)
池袋文芸坐 1997(平成9)年3月6日閉館/2000(平成12)年12月12日〜「新文芸坐」(写真提供:新文芸坐)

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イギリス映画らしい上品さを保ちつつ、階級間の価値観の対立を抉ってみせる。

眺めのいい部屋.jpg眺めのいい部屋 完全版 [DVD]モーリス チラシ.jpg「モーリス」チラシ 日の名残り.jpg 「日の名残り [DVD]

「眺めのいい部屋」('86年)
眺めのいい部屋2.jpg 年配の従姉に付き添われイタリア旅行するヒロイン・ルーシー(ヘレナ・ボナム・カーター)は、フィレンツェの宿では景色の良くない部屋に当たってしまうが、風変わりなエマソン父子と知り合い、眺めいい部屋と交換してもらうことになる。言葉数は少ないが自分の気持ちに正直な青年ジョージ・エマソン(ジュリアン・サンズ)はルーシーに恋をし、ピクニック先の草原でルーシーに情熱的なキスをする。従姉によって引き離されるように帰途についたルーシーは、イギリスでの日常生活に戻ると上流階級のインテリのシシル(ダニエル・デイ・ルイス)と婚約をし、彼女にとってジョージとの出来事は旅の思い出に留まるはずだったのが、何とエマソン父子が近所に越してきてしまう―。

 イギリス映画らしい上品さに溢れた映画でありながら、中流に属する女性の恋と結婚を通して、階級間の価値観の対立という構図を抉ってみせています。
 主人公の婚約者が最上流ということになるのでしょうが、ダニエル・ディ・ルイスがそのスノッブぶりを好演していて、主人子の年配の従姉は上流を気取る中流といったところでしょうか(演じるマギー・スミスは、最近はハリー・ポッター・シリーズでおなじみだが、この頃から今みたいな感じ)。


 彼らの対極にいるのが、階級では彼らより下層の自由主義者のエマソン父子で、主人公が、父子の息子への恋を通して、自らを覆っていた欺瞞の皮を1枚ずつ剥いでいく様が、丹念に描かれているように思えました。
 そんなにストーリー的にインパクトがあるものではないのですが、格調高いセットや衣装と透明感あふれる映像は、まさにイギリス映画を見たという感じ、但し、監督のジェームズ・アイヴォリーはアメリカ人、製作のイスマイール・マーチャントはインド人です。                          

「モーリス」('87年)
Film Stills from Maurice.bmp 原作はE・M・フォースターの同名小説で、ジェームズ・アイヴォリー監督の作品では、「インドへの道」('84年)、「モーリス」('87年)、「ハワーズ・エンド」('92年)もフォースターの原作ですが、いかにもイギリス映画という感じでありながら、異文化要素が織り込まれており(「モーリス」は、地理的な異文化ではなく、ホモ・セクシュアルという異文化だが)、いずれの作品も複数の文化を相対化する視点のもと、貴族社会(即ち"世俗的なもの")に対する批判や皮肉が込められているように思います。


 「モーリス」でヒュー・グラントが演じた、主人公とは対照的的な生き方をする若者の演技は絶品でした(人を"その道"に引き摺り込んでおいて、自分は...)。彼が演じた政治家が現実の誰かと重なったのかどうかは知りませんが、この作品社会問題にもなったそうです。ヒュー・グラントが「フォー・ウェディング」('94年)のようなロマンティック・コメディに出ているのは、「モーリス」のイメージを払拭するためではないかと思ったぐらい。 

「日の名残り」('93年)
Remains of the Day.gif カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」('93年)も含め、撮る作品にあまりハズレがないように思われ、この作品でのダニエル・ディ・ルイスや「モーリス」でのヒュー・グラント、「日の名残り」でのアンソニー・ホプキンスなど、既に良く知られている役者の使い方も、この監督の手にかかるとまた別な味が出てくるという気がします。


 とりわけ、イギリスの名門家に仕えてきた老執事が自分の半生を回想し、仕事のために犠牲にしてしまった愛を確かめる様を描いた「日の名残り」においては、アンソニー・ホプキンスを老執事に配し、その演技の魅力を大いに引き出していたように思います(この執事を見ていると『葉隠』の"忍ぶ恋"を想起させられる)。

尤も、アンソニー・ホプキンスという俳優は、「台本至上主義」というか「台本絶対主義」で知られる役者で、撮影に入る前にはもう台本上の役の人物になり切っているそうですが。



「眺めのいい部屋」●原題:A ROOM WITH A VIEW●制作年:1986年●制作国:イギリス●監督: ジェームズ・アイヴォリー●製作:イスマイール・マーチャント●脚色:ルース・プラヴァー・ジャブヴァーラ●撮影:トニー・ピアース・ロバーツ●音楽:リチャード・ロビンズ●原作:E・M・フォースター●時間:114分●出演:ヘレナ・ボナム・カーター/ジュリアン・サンズ/マギー・スミス/ダニエル・ディ・ルイス/デナム・エリオット●日本公開:1987/07●配給:シネマテン●最初に観た場所:池袋文芸坐2 (88-09-15)(評価:★★★★)●併映:「モーリス」(ジェームズ・アイヴォリー)
文芸坐.jpg

文芸坐2 (池袋文芸座内)1997(平成9)年3月6日閉館

モーリス.jpg「モーリス」●原題:MAURICE●制作年:1987年●制作国:アメリカ●監督: ジェームズ・アイヴォリー●製作:イスマイール・マーチャント●脚本:キット・ヘスケス・ハーヴェイ/ジェームズ・アイヴォリー●撮影:ピエール・ロム●音楽:リチャード・ロビンズ●原作:E・M・フォースター●時間:140分●出演:ジェームズ・ウィルビー/ヒュー・グラント/ルパート・グレイヴス/デンホルム・エリオット/サイモン・カロウ●日本公開:1988/01●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:池袋文芸坐2 (88-09-15)(評価:★★★★)●併映:「眺めのいい部屋」(ジェームズ・アイヴォリー)

「日の名残り」●原題:REMAINS OF THE DAY●制作年:1993年●制作国:イギリス●監督: ジェームズ・アイヴォリー●製作:マイク・ニコルズ/ジョン・キャリー/イスマイール・マーチャント●脚色:ルース・プラヴァー・ジャブヴァーラ●撮影:トニー・ピアース・ロバーツ●音楽:リチャード・ロビンス●原作:カズオ・イシグロ 「日の名残り」●時間:134分●出演:アンソニー・ホプキンズ/エマ・トンプソン/ジェームズ・フォックス/クリストファー・リーヴ/ヒュー・グラント●日本公開:1994/03●配給:コロムビア映画(評価:★★★★)

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世に出るのが早過ぎた(?)エコロジー映画。
ローカル・ヒーロー夢に生きた男1.jpg 「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男 [DVD]」 ローカル・ヒーロー夢に生きた男2.jpg 「ローカル・ヒーロー [DVD]

 テキサスに本拠を置くアメリカ最大の石油会社のエリート社員マッキンタイヤ(ピーター・リガート)は、石油コンツェルンの会長(バート・ランカスター)から石油コンビナートの土地買収を命じられて、スコットランドの漁村へ派遣されるが、地元住民の反対に合うかと思われた土地買収は、村人の方が「金が入るなら」と意外と積極的で、ところがいよいよ契約という段階で、ベン(フルトン・マッケイ)という入江の小屋に住む老人が所有地を手放すことに強く抵抗していることが判り、交渉が難航し始める―と、一応はビジネスドラマみたいな体裁で話は進みますが、まさかラストがこうなるとは―。

 エリート社員マッキンタイヤの趣味は天体観測で、石油コンツェルン会長からは土地買収の交渉状況と併せてスコットランドの星空の模様を電話で知らせることも命じられていたのですが、そしたら、偶然に大流星群を発見することになり、会長はそれを見るため現地へ飛びますが、その前にベン老人との交渉を片付けてしまおうと彼の小屋に寄る―。

MOMENTS FROM LOCAL HERO
ビル・フォーサイス 「ローカル・ヒーロー/夢に生きた男」.jpg マッキンタイヤと村人の間で土地買収に向けて親和的基調で話が進むなか、老人との直接交渉のために出向いたバート・ランカスター演じる会長、いかにも強面(こわもて)の石油王と、村の頑固老人の、絶対に「他人の言いなりにはならなさそうな者」同士の一騎打ちの結末はどうなるのか、これは本編を観てのお楽しみといったところでしょうか。

 英国風ユーモア、スコットランド美しい自然と純朴な人々、心地良い音楽―振り返ればどれもが旨く調和していて、しかも最後に観る側を満たされた気分にしてくれる作品だったと思うのですが、ロードの際もロード終了後も一部でしか評判にならなかったのは、ビジネスドラマなのか、ある種のメルヘンなのか、規定の仕様が無かったという面があるためではないでしょうか(誰をターゲットに告知してよいのかが難しい)。
 今ならば、「エコロジー映画」ということでドーンと打ち出せるのだろうけれども...。そうした意味では、ちょっと世に出るのが早過ぎた観もある作品です。

大井武蔵野館.jpg「ローカル・ヒーロー/夢に生きた男」●原題:LOCAL HERO●制作年:1983年●制作国:イギリス●監督・脚本:ビル・フォーサイス●製作:デイヴィッド・パトナム●撮影:クリス・メンゲス●音楽:マーク・ノップラー●時間:112分●出演:バート・ランカスター/ピーター・リガート/デニス・ローソン/ピーター・キャパルディ/フルトン・マッケイ●日本公開:1986/04●配給:ヘラルド・エース●最初に観た場所:大井武蔵野館 (87-11-03)(評価:★★★★☆)●併映:注目すべき人々との出会い」(ピーター・ブルック)

大井武蔵野館 1999(平成11)年1月31日閉館

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スティーブ・オベット、セバスチャン・コー、ジョナサン・エドワーズなどを想起させられた。

炎のランナー1.jpg 「炎のランナー[DVD]」 炎のランナー0.jpg

炎のランナー.jpg 裕福な家庭の出ではあるがユダヤの血をひくために差別と偏見を受け、走ることによって栄光を獲て真のイギリス人になろうとするハロルド・エイブラハムスと、スコットランド人宣教師の家に生まれ、自身も神のために走る宣教師であるエリック・リデルという、1924年のパリ・オリンピックで祖国イギリスに金メダルをもたらした2人の陸上短距離ランナーの友情を描く―。

 ヴァンゲリス・O・パパサナシュー(最近は"ヴァンゲリス"としか表記しないがギリシャ人)作曲の「タイトルズ(Chariots of Fire)」が陸上競技の美しい映像にマッチして耳にも心地良く、スポ根・ライバル物でもイギリス人が撮るとこんなに優雅なものになるのかと。
 冒頭のランナー達が浜辺を走るシーンなどは音楽効果も相俟って陶然とするほど美しく、また、芝の庭に並べたハードル1台1台の上にシャンパンを満たしたグラスをいくつも並べてそれを飛び越えていく、そんな練習風景には、うっとりする前に唖然としてしまいまいましたが。


     
Steve Ovett & Sebastian Coe in the 1980 Moscow Olympics.jpg 実在の2人の陸上選手がモデルになっているそうですが、映画公開当時は、70年代から80年代にかけて活躍したイギリスの陸上選手スティーブ・オベットセバスチャン・コーをすぐに想起しました。
 '80年のモスクワ五輪でオベットはコーの得意とする800mで、コーはオベットの得意とする1500mでそれぞれ金メダルを獲っていますが(コーは4年後のロス五輪でも金)、2種目でメダルをわけ合った点も似ているし、コーが優等生タイプでオベットがコーの敵役と見られていた点も似ています。

Steve Ovett & Sebastian Coe in the 1980 Moscow Olympics

ジョナサン・エドワーズ.jpg オリンピックの100m競技が日曜日に行われることになっていたのを、リデルが"安息日"であるためとして出場を拒否し、代わりに走ったエイブラハムスが出場し金メダルを獲得したというのは史実であり、このことは、より近年の話ですが、三段跳びの'00年シドニー五輪の金メダリストで、現世界記録保持者であるジョナサン・エドワーズ(彼も敬虔なクリスチャンだが)が、'91年の世界陸上東京大会で、競技日が日曜日だったため「神の定めた安息日に競技を行うことはできない」として欠場したことを想起させます(その後、彼は考えを変えたが)。
 アメリカの陸上選手は黒人ばかり。一方イギリスは、陸上スポーツの世界にも、こうしたエスタブリッシュな伝統が受け継がれているのだなあと。

 Jonathan Edwards

 リデルは後に宣教師として家族とともに中国に渡り、満州事変の後も1人滞在しましたが、日本軍に拘留され、収容所で病のため亡くなっています(このことは映画の最後でもテロップ紹介されていて、彼の死に際してはイギリス全土が喪に服したとのこと)。スポーツの"中"の世界は同じでも、"外"の世界(時代背景)はやはり違う。


 因みに、この作品を観た「新宿プラザ劇場」は1,044席の大型劇場でしたが、昨年(´08年)11月に閉館し、この時点で都内で座席数1,000以上の劇場は、同じ歌舞伎町の「新宿ミラノ1」だけとなりました。

  旧「日本劇場」 1933年オープン時 2,063席 → 1981年閉館
 「日比谷映画劇場」1934年オープン時 1,680席 → 1984年閉館
  旧「有楽座」  1949年~ロード館 1,572席 → 1984年閉館
 「松竹セントラル」1952年オープン時 1,156席 → 1999年閉館
 「テアトル東京」 1955年オープン時 1,248席 → 1981年閉館
 「日比谷スカラ座」1955年オープン時 1,197席 → 1998年閉館
 「新宿ミラノ座」 1956年オープン時 1,288席 → 2006年「新宿ミラノ1」1,064席
 「渋谷パンテオン」1956年オープン時 1,119席 → 2003年閉館
 「新宿ピカデリー」1962年オープン時 1,044席 → 2001年「ピカデリー1」改修 820席 → 2006年閉館
 「新宿プラザ劇場」1969年オープン時 1,119席 → 2008年閉館
 「日本劇場」   1984年オープン時 1,008席 → 2002年「日劇1」948席


新宿プラザ 閉館上映チラシ.jpg新宿プラザ劇場200611.jpg 「炎のランナー」●原題:CHARIOTS OF FIRE●制作年:1981年●制作国:イギリス●監督:ヒュー・ハドソン●製作:デヴィッド・パットナム●製作指揮:ドディ・フェイド●脚本:コリン・ウェランド●撮影:デヴィッド・ワトキン●音楽:ヴァンゲリス●時間:123分●出演:ベン・クロス/イアン・チャールソン/イアン・ホルム/コリン・ウェランド/ナイジェル・ヘイバース/アリス・クリーグ/シェリル・キャンベル/ニコラス・ファレル●日本公開:1982/08●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:新宿プラザ(82-08-28)(評価:★★★★)

歌舞伎町・新宿プラザ劇場 1969年10月31日オープン、コマ劇場隣り (1,044席) 2008(平成20)年11月7日閉館

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60年代英国若者文化を描出。主人公は死んだのか(邦題に解釈が込められている?)

さらば青春の光2.jpg さらば青春の光 チラシ.jpg ポスター/パンフ さらば青春の光1.jpgさらば青春の光 [DVD]

QUADROPHENIA 2.gif QUADROPHENIA.bmp 細身のアイビー・スーツにネクタイを締め、米軍放出のロング・コートを無造作に羽織る"モッズ"ファッションに固執する若者グループ―広告代理店のメールボーイをしているジミーもその1人で、会社がひけると、"モッズ"の溜り場のクラブへスクーターで駆けつける日常だが、そこでは、"モッズ"の対立グループである、革ジャン・リーゼントで大型バイクを乗り回す"ロッカーズ"との間での決着をつけるべく、近々果し合いがあるとの話が―。

Quadrophenia, the definitive fashion guide for mod culture.jpg  "モッズ"とは、ロンドン近辺で60年代に流行した音楽やファッションをベースとした若者文化で、そのライフスタイルは、例えば、夜はファッションを決めて派手なデコレーションをしたスクーターで移動し、自家調合のドラッグを服用し、女の子と夜を徹してクラブで踊り明かすというようなもので、この映画のタイトル(QUADROPHENIA)は、ロックグループ"ザ・フー"が'73年に発表したアルバム「四重人格」からとっていますが(ザ・フーの曲がふんだんに使われている)、物語の背景には、'64年に実際に起きた「ブライトンの暴動」と呼ばれる、"モッズ"対"ロッカーズ"の大掛かりな言わば集団のケンカ騒ぎがモデルとしてあります。

Quadrophenia.net より1.jpgQUADROPHENIA sting.jpg 実際、この暴動騒ぎの場面はリテイクの効かない合戦シーンのようなシークエンスで撮られていてなかなかの迫力ですが、"モッズ"は主人公にしても「さやえんどう」みたいにひょろっとした感じの青年で、1対1だと"ロッカーズ"の方が強そうだけれども、集団で束になって相手に向かっていくという感じです。
 但し、そうした中にあって、スティング演じるリーダーのエースは別格の存在感があり、かなりカッコいい(スティングはこれが映画初出演)。

Quadrophenia3.gif 暴動騒ぎに加わったことが親に知れ、家族からも見離されてドラックに溺れる主人公は、後日偶然に、今日まで長く憧憬の対象であったエースを見つけますが、それは郷里のホテルのドアマンとしてポーターのユフォームを纏ったものだった―(ああ、ショック。ボーイ姿のスティング)。
 エースの派手なスクーターを見つけ出したジミーは、それを駆ってブライトンの海岸を疾走し(この場面のカメラが美しい)、やがて岬の先端の絶壁へ。

Quadrophenia.net より.jpg 空中に舞うヴェスパは、何を意味するのでしょうか。
 最初は、ああ、ジミー君よ、死んじゃったのかあ、と思ったけれども、そいうことではないらしいです。
 心の中で、かつての憧憬の的であったエースを葬る儀式だったのでしょう。邦題にはちょっとクサさもありますが、その辺りの解釈も含んでのことなのかも。

「さらば青春の光」●原題:QUADROPHENIA●制作年:1979年●制作国:イギリス●監督:フランク・ロダム●製作:ロイ・ベアード/ビル・カービシュリー●製作総指揮:デイヴィッド・ギデオン・トムソン●脚本:デイヴ・ハンフェリーズ/マーティン・スチルマン/フランク・ロダム●撮影:ブライアン・テュファノ●音楽:ザ・フー(ロジャー・ダルトリー/ジョン・エントウィッスル/ピート・タウンゼンド)●時間:111分●出演:フィル・ダニエルス/レスリー・アッシュ/スティング/フィリップ・デイヴィス/マーク・ウィンゲット●日本公開:1979/11●配給:松竹富士●最初に観た場所:高田馬場パール座(83-02-27)(評価:★★★☆)●併映:「カリフォルニア・ドリーミング」(ジョン・ハンコック)

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女を憎むことができない男の純情が切ない。

仕立て屋の恋0.jpg仕立て屋の恋 [DVD]仕立て屋の恋.jpg仕立て屋の恋 [DVD]Patrice Leconte.jpg Patrice Leconte

仕立て屋の恋1.jpg仕立て屋の恋2.jpg ある青年が殺され、前に強制わいせつ罪で捕まったことのある仕立て屋の中年男イールが疑われるが、彼は、向かいに住む美しい女性に恋い焦がれていて、但し、彼女に言い寄るわけでもなく、彼女の生活を夜毎、自分の部屋から覗き見するのを生きがいとしており、また、彼女が殺人事件の真犯人であることも知っていた―。

 パトリス・ルコント監督が「髪結いの亭主」('90年/仏)の前年に撮った作品で(日本での公開は「髪結いの亭主」の方が先)、「メグレ警部シリーズ」のジョルジュ・シムノンが原作(「イール氏の犯罪」)ですが、推理モノというよりは恋愛モノという印象の方が強かったです。

仕立て屋の恋3.bmp 最初のうちは、ハゲで根暗で孤独な独身中年男であるイール氏にあまり感情移入できなかったけれども、終わりの方ではかなり入り込んでしまって、最後、女を憎むことができない男の純情が何だか切なかったなあ。

 イール氏は元来、所謂"脳内恋愛"を至上とするタイプで、その行動は"ストーカー"的でもあったかとのですが、その対象物である"理想の彼女"の方から自分の所へ来てしまったわけです(彼女がイール氏を好いたわけではなく、自分が犯人であることを彼が知っているかどうか探りを入れにきたのだが)。

 そこから彼の恋愛観は変わってしまい、"脳内恋愛"から本当の恋愛になってしまって、そのことが最終的に彼に悲劇をもたらすわけで、但し、彼はその体験を悔いておらず、その「潔さ」(常識的には"愚かしさ"ともとれるものだが)がいい。

仕立て屋の恋2.jpg "オタク道"から見れば、仮想現実から一歩踏み出したところに彼の誤りがあったとも言えるのかも知れませんが、イール氏は本質的には"オタク"でも"ストーカー"でもなかったということになるのかも知れません。

 悲劇的な話の中にも、イール氏の自己発見と、それに基づく信念が貫かれている点での救いがありました。

 イール氏を演じるミシェル・ブランの演技もさることながら、ドニ・ルノワールのカメラ、マイケル・ナイマンのクラシックを織り込んだ音楽も良く、特に前半はフランス映画らしいフランス映画という感じ。

 フランス映画でも最近はアメリカのテレビドラマみたいな作品が多くなり、'80年代から'90年代にかけてはまだ、この作品や、ジャン=ジャック・ベネックスの「ディーバ」('81年)、リュック・ベッソンの「グラン・ブルー」('88年)、レオス・カラックスの「ポンヌフの恋人」('91年)などもあったことはあったけれども、最近はこの類の映画はあっても映画祭での上映に止まり、あまりロードにかからないし、なかなかDVD化もされないような気がします。

仕立て屋の恋 シネスク.jpg 「仕立て屋の恋」●原題:MONSIEUR HIRE●制作年:1989年●制作国:フランス●監督:パトリス・ルコント●製作:フィリップ・カルカッソンヌ/ルネ・クレトマン●脚本:パトリス・ルコント/パトリック・ドヴォルフ●撮影:ドニ・ルノワール●音楽:マイケル・ナイマン●原作:ジョルジュ・シムノン 「イール氏の犯罪」●時間:80分●出演:ミシェル・ブラン/サンドリーヌ・ボネール/リュック・テュイリエ/アンドレ・ウィルムス/フィリップ・ドルモワ●日本公開:1992/07●配給:デラ・コーポレーション(評価:★★★★)

 「シネマスクエアマガジンNo.98」
 

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姉弟の近親相姦という特異なモチーフをとり上げて、なお透明感を保持している映像美。

山の焚火.jpg山の焚火 [DVD]」  Alpine Fire ( Höhenfeuer ).jpg 輸入版DVD Fredi M Muller.gif Fredi M Muller

hohenfeuer 02.jpg 人里離れた山中の農場で暮らす父、母、姉、そして聾唖の弟の4人家族の物語で、家族は皆、弟のことを気遣いながら深い愛情で結ばれていて、その弟は、学校には通わず、山地で働く父の手助けをしながら姉から文字や算数を教わっている―。

 弟には時々爆発的な衝動を抑制できなくなる性質(癲癇)があり、ある日、故障した芝刈り機に腹を立ててそれを壊してしまい、怒った父親から家を追い出されて山の一軒家に追いやられてしまうが、なかなか帰ってこない弟のことを心配した姉が迎えに行く―。

山の焚火2.jpg 姉弟の近親相姦がモチーフとなって、しかも最後には、そのことを知って激昂し弟を殺そうとした父親と姉との間で不幸な事故が起き、両親とも亡くなってしまうという悲劇的な結末を迎えますが、不思議とドロドロした感じがなく、時代は現代ですが、孤立し閉塞した状況下でのこうした出来事が、美しい自然を背景に淡々と描かれていく様は、何か神話か寓話のようでもあります。

 個人的には、静謐な自然の中でそうした全ての出来事が「浄化」されていくような、そんな印象を抱いたわけですが、観る人によっては「神もそれを許しているような」という印象を受けるかも知れません。

山の焚火 パンフレット.png 一方、別の見方をすれば、これは姉にとってはカタストロフィ的結末ではなく、彼女自身が望んでいた理想のかたちになったともとれなくもないかも。
 両親の死体を雪の中へ埋葬する様には死者への畏怖と祈りが込められていますが、別峰に住む祖父母へその死を知らせるために黒く染めたシーツを雪原に拡げる姉の所為は実に淡々としており、過剰な感情の奔出は見られず、安寧の境地にあるようにも見えます。

山の焚火 チラシ.jpg スイスのフレディ・M・ムーラー監督の作品であり、ビデオが絶版となり、かなり経ってからDVDで復活するなどしているのは、同監督の「僕のピアノコンチェルト」('06年/スイス)が多くの国際的な映画賞を受賞して、この寡作の監督に久しぶりに注目が集まったこともありますが、姉弟の近親相姦というモチーフの特異性と、そうした特異なモチーフをとり上げてなお透明感を保持している映像美によるところが大きいのではないかと思います。

「山の焚火」チラシ

「山の焚火」●原題:HOHENFEUER●制作年:1985年●制作国:スイス●監督・脚本:フレディ・M・ムーラー●製作:ベルナール・ラング●撮影:ピオ・コラーディ●音楽:マリオ・ベレッタ●時間:120分●出演:トーマス・ノック/ヨハンナ・リーア/ドロテア・モリッツ/ロルフ・イリッグ/ティック・ブライデンバッハ●日本公開:1986/08●配給:シネセゾン●最初に観た場所:シネヴィヴァン六本木(86-09-20)(評価:★★★★)

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