「●写真集」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【966】 ブラッサイ 『やさしいパリ』
「●日本史」の インデックッスへ
暗い気持ちになる写真が多い中、子供たちが遊んでいる写真にふと心が和む。
『写真記録部落』 ['84年]
『部落―藤川清写真集 (1960年)』
冬季札幌オリンピックのポスター写真などで知られる写真家・藤川清(1930‐1990/享年59)の'84(昭和59年)に刊行された写真集で、主に昭和30年代頃の全国の部落を取材しています(当時、藤川清は20代半ばだったということになる)。
藤川清は昭和35年に写真集『部落』('60年/三一書房)を発表、展示会などを開いて、日本写真批評家協会新人賞を受賞していて、この新書版の本は、かつては関西の公立や学校の図書館などで見かけたことがありましたが、今は、少なくとも東京の公立図書館では殆ど見かけず、Amazonマーケットプレイスなどの古書市場であまり出回っていないようです。
本書は、三一書房の『部落』で使われた写真をベースに、ジャーナリストの東上高志氏が解説文を添えていますが、かつて部落のあった場所の"現在の(80年代前半の)"様子を撮ったカラー写真も一部含まれています。
この写真集を今(2010年)見るということは、約25年前に刊行された写真集の中で、当時の更に25年前に撮られた写真を見るということになりますが、写っている部落の様子や人々の暮らしぶりは、更に時代を遡って終戦間もない頃のものを見てるような印象を受け、部落の人々がいかに時代に取り残された生活を余儀なくされていたかが分かります。
部落の歴史についても書かれていますが、一番大元の江戸時代にどうして部落が作られたのかということについては、一般には士農工商の更に下の身分層を設けて、農民を百姓という身分に安住させるためだったとされているものの、具体的には不明な点が多いらしく、①皮革産業の保護政策のもと支配者がそれを独り占めしようとし、従業者を囲い込んだことによるもの、②城や城下町を建設するために労働者を集め、出来上がってからは、掃除・見回りなどの雑務にあたらせるために住まわせたもの、③交通運輸の必要から、街道や川筋、港近くに作ったもの、④農村内部で農民を分裂させたり、部落を分村させて作り、農業の傍ら雑業などにあたらせたもの、が成立パターンとして考えられるとのことです。

なぜ明治時代に入っても部落が残ったのかと言うと、農民の不満を下に向けるという施策が引き続き政府により踏襲されたからですが、本書では、それに加えて、農民を土地に縛り付けて収奪するというアメリカの社会の差別の様式が日本に取り込まれ、「階層(身分)」ではなく「金(貧乏)」によって差別するという図式に再構成されたのだとしています。
見ていて暗い気持ちになる写真が多く、息苦しささえ感じられるような写真もありますが、そうした中で、子供たちが遊んでいる時に見せる笑顔などを撮ったものにはふと心が和み、但し、写真の下に「いま彼は32歳」とか書いてあると(そうすると今57歳かあ)、この子がどのような人生を送ったのかと、また考えてしまいます。
藤川清が作家・水上勉の取材に同行した際に、クルマの後部座席で水上勉が、「おどろいたネー、部落を写真にとって展覧会をひらいたサムライがいるんだよ。すごいネー」と言い、前の助手席に座っているのがその当人であると初めて知って飛び上がったというエピソードが興味深いです(藤川清は、クルマで移動する間ずっと、どうしてそんな大それたことが出来たのかと、水上勉から"取材"され続けたとのこと)。



映画やドラマにもなった『氷点』で知られる作家・三浦綾子(1922‐1999/享年77)による聖書入門で、同じカッパ・ブックスの『旧約聖書入門-光と愛を求めて』('74年/光文社)の姉妹本でもあり(現在は共に光文社文庫に収められれいる)、カッパ・ブックスのカバー折り返しに佐古純一郎氏が書いているように、「自分自身の生き様を引っ提げて新約聖書にぶつかっている」本です。
自分自身がキリストの愛によって泥沼から救われたとの思いを持つ著者は、聖書を自らの良心のバロメーターとしていると言うように、聖書と真正面から向かい合い、それを自分自身の信仰生活の糧にしようとする姿勢が前面に出ていて、両方ともそれぞれに、遠藤文学、三浦文学と呼応しているように見えるのが興味深いです。



日本人が聖書を読んでよく引っ掛かるのが「奇跡」に関することですが、著者は、「奇跡」と「異象(異常な現象)」とは別であり、現象として信仰の有無に関係なく、誰にも認識できるものは(現象化されたもの)は「奇跡」ではなく「異常な現象」であり、「奇跡」とは認識の対象ではなく、現象の背後にあるものに対する信仰の対象であるとしていて、こうした見方を通して、処女降臨やキリストの復活をどう読むかが、分かり易く解説されています。


この物語は、セシル・B・デミル監督により「サムソンとデリラ」('49年/米)という映画作品になっていて、ジョン・フォード監督の「荒野の決闘」('46年/米)でドク・ホリデイを演じたヴィクター・マチュア(1913-1999)が主演しましたが、往々にして怪力男は純粋と言うか単純と言うか、デリラのような悪女にコロっと騙されるというパターナル話(アブラハム、サラ、ハガルの三角関係同様に?)で、全体にややダルい感じがしなくも無いけれど、ヴィクター・マチュアの"コナン時代"のシュワルツネッガーのようなマッチョぶりは様になっていて、最後の方で、髪を切られて怪力を失ったサムソンが囚われの身となり神に嘆願するシーンはストレートに胸をうち、ラストの神から力を得て大寺院を崩壊させるスペクタルシーンは圧巻、それまで結構だらだら観ていたのに、最後ばかりは思わず力が入り、また、泣けました(カタルシスだけで終わってはマズイいんだろうけれど・・・。だから、聖書の物語の映像化は難しい?)
これ、オペラにもなっていて、カミーユ・サン=サーンスが作曲したテーマ曲はフィギアスケートの安藤美姫選手が以前SP(ショート・プログラム)で使っていましたが、その時の衣装もこの物語をイメージしたものなのかなあ。
「サムソンとデリラ」●原題:SAMSON AND DELILAH●制作年:1949年●制作国:アメリカ●監督・製作:セシル・B・デミル●脚本:ジェシー・L・ラスキー・ジュニア/フレドリック・M・フランク●撮影:ジョージ・バーンズ●音楽:ヴィクター・ヤング●原作:ハロルド・ラム●時間:128分●出演:ヴィクター・マチュア/ヘディ・ラマー/ジョージ・サンダース/アンジェラ・ランズベリー/ヘンリー・ウィルコクスン●日本公開:1952/02●配給:パラマウント日本支社(評価:★★★☆) 
一方で、「観光旅行」記的なところもあって、実際、北米のナイヤガラ滝にしてもグランド・キャニオンにしても、オーストラリアのエアーズロックにしてもキングズ・キャニオンにしても、更には南極にしても、ツアー客が訪れる観光地でもあるわけで、本書は著者のプロとしての知識とアマチュア観光客としての感覚がマッチングされ、シズル感のあるものになっているように思いました(文章も上手い)。
吉田 伸夫 氏(略歴下記)

頼藤和寛(よりふじ かずひろ)神戸女学院大学・人間科学科教授 (2001年4月8日没/享年53/略歴下記)


朝日新聞の若き記者のがん闘病記で、'03(平成15)年・第51回「日本エッセイスト・クラブ賞」受賞作。エッセイスト・日ロ同時通訳.jpg)
本書は、'00年秋の朝日新聞神奈川版での連載がベースになっていますが、エッセイストの絵門ゆう子氏(元NHKアナウンサー池田裕子氏)が、進行した乳がんと闘いながら、朝日新聞東京本社版に「がんとゆっくり日記」を連載していた際には、著者はその連載担当であったとのこと、絵門さんは帰らぬ人となりましたが('06年4月3日没/享年49)、以前、米原万里氏の書評エッセイで、免疫学者の多田富雄氏が脳梗塞で倒れたことを気にかけていたところ、米原さん自身が卵巣がんになり、絵門さんに続くように不帰の人となったことを思い出し('06年5月25日没/享年56)、人の運命とはわからないものだなあと(自分も含めて、そうなのだが)。





本書は、講談社現代新書としては珍しい(?)カラー版で、同氏の『カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産』('04年/岩波新書)と内容的にかぶるのではないかとも思ったのですが、読んでみて、或いは写真を見て、今回も期待を裏切るものではありませんでした。
老朽化しつつあるハッブル宇宙望遠鏡について、NASAが、国際宇宙ステーションの軌道外にハッブル宇宙望遠鏡があることから、予算難に加えて宇宙飛行士の安全を確保出来ないことを理由に修理見送りの決定を下したため、著者が前著で、"人類遺産"の対語として命名された"宇宙遺産"だが、ハッブル宇宙望遠鏡そのものの"遺産"ということになってしまうのかと嘆いていたのを覚えています。



埴原和郎著『人類の進化史-20世紀の総括 』('04年/講談社学術文庫)のすぐ次に読んだということもありますが、たいへん分かり易い入門書でした。
「新人」に関しては、ネアンデアルタール人(ホモ・ネアンデアルターレンシス)とクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)の関係などを図説でもって分かり易く解説していますが、形態的な進化の過程を探るだけでなく、"おしゃれ"の始まりなどの「心の進化」の過程や、農耕、家畜の飼育、飲酒などの習慣がいつ頃から始まったのかを解説し、また我々にとって興味深い「日本人の起源」についても考察していますが、こと後者については、遺伝子情報から解析すると相当複雑で、単に「南から来た」とか「北から来た」といった二者択一的な解答を出すのは難しいようです(このテーマについては、篠田謙一著『日本人になった祖先たち-DNAから解明するその多元的構造』('07年/NHKブックス)により詳しく解説されている)。