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面白かった。作者が読者に対して仕掛けた読み方の「罠」が感じられた。
『悪人』 ['07年]
『悪人(上) (朝日文庫)』 『悪人(下) (朝日文庫)
』 ['09年]
2007(平成19)年・第61回「毎日出版文化賞」(文学・芸術部門)並びに2007(平成19)年・第34回「大佛次郎賞」受賞作。
保険外交員の女性・石橋佳乃が殺害され、事件当初、捜査線上に浮かび上がったのは、地元の裕福な大学生・増尾圭吾だったが、拘束された増尾の供述と、新たな目撃者の証言から、容疑の焦点は一人の男・清水裕一へと絞られる。その男は別の女性・馬込光代を連れ、逃避行を続けている。なぜ、事件は起きたのか? なぜ2人は逃げ続けるか?
出版社の知人が本書を推薦していたのですが、書評などを読むと、これまでの作者の作品と同様に、人と人の「距離」の問題がテーマになっているということを聞き、マンネリかなと一時敬遠していたものの、読んでみたら今まで読んだ作者の作品よりずっと面白かったし、それだけでなく、作者が読者に対して仕掛けたトラップ(罠)のようなものが感じられたのが興味深かったです。
最初は、あれっ、これ「ミステリ」なのという感じで、芥川賞作家がミステリ作家に完全に転身したのかと。ところが、真犯人はあっさり割れて、今度は、その清水裕一と馬込光代という心に翳を持つ者同士の「純愛」逃避行になってきて、最後は、裕一が光代をあたかも"犠牲的精神"の発露の如く庇っているように見えるので、これ、「感動的な純愛」小説として読んだ人もいたかも。
自分としては、清水祐一は「純愛」を通したというより、「どちらもが被害者にはなれない」という自らの透徹した洞察に基づいて行動したように思え、そこに、作者の「悪人とは誰なのか」というテーマ、言い換えれば、「誰かが悪人にならなければならない」という弁解を差し挟む余地の無い"世間の掟"が在ることが暗示されているように思いました。
馬込光代の事件後の熱から覚めたような心境の変化は、彼女自身も「世間」に取り込まれてしまうタイプの1人であることを示しており、それは、周囲の見栄を気にして清水裕一を「裏切り」、増尾圭吾に乗り換えようとした石橋佳乃にとっての「世間」にも繋がるように思えました(作者自身は、「王様のブランチ」に出演した時、石橋佳乃を「自分の好きなキャラクター」だと言っていた)。
そうして見れば、増尾圭吾が憎々しげに描かれていて(石橋佳乃の父親が読者の心情を代弁をしてみせて、読み手の感情にドライブをかけている)、清水祐一が彼に読者の同情が集まるように描かれているのも(母親に置き去りにされたという体験は確かに読み手の同情をそそる)、作者の計算の内であると思えます。
これをもって、本当に悪いのは増尾圭吾のような奴で、清水祐一は可哀想な人となると、これはこれで、作者の仕掛けた「罠」に陥ったことなるのではないかと。
石橋佳乃の「裏切り」も、その父親の「復讐感情」も、清水祐一の過去の体験による「トラウマ」も、注意して読めば、今まで多くの小説で描かれたステレオタイプであり、作者は、敢えてそういう風な描き方をしているように思いました。
そうした「罠」の極めつけが、清水裕一と馬込光代の「純愛」で、これも絶対的なものではなく(本書のテーマでもなく)、ラストにある通り、最終的には相対化されるものですが、それを過程においてロマンスとして描くのではなく、侘びしくリアルに描くことで、読み手自身の脳内で「純愛」への"昇華"作業をさせておいて、最後でドーンと落としているという感じがしました。
時間的経過の中で、人間同士の結ぼれや相反など全ての行為は相対化されるのかも知れない、但し、「世間」はその場においては絶対的な「悪人」を求めて止まないし、同じことが、「純愛」を求めて読む読者にも、まるで裏返したように当て嵌まるのかも知れないという印象を抱きました。
【2009年文庫化[朝日文庫(上・下)]】





2010年映画化(東宝) 



西 加奈子 氏

経営破綻の危機に晒された東都生命は、メインバンクの援助打ち切りと風評による資金流出が重なって、ついに外資に売却されることが決まり、外資幹部、弁護士チームが次々と乗り込んでくるが、職員代表として管財人室長を命じられた友部陽平は、この身売り劇の陰で、許されざる謀略が進んでいることを知る―。


ブッポウソウの鳴き声と思われたものが実はコノハズクだったということが判明した話などは、知っている人は知っている、それなりに有名な話なのですが(「昭和タイムズ(53号・昭和10年)」という最近の雑誌にも出ていて、作中のラジオ中継番組が出ている東京朝日新聞の番組表が掲載されている)、2.26事件の数ヶ月前のことで、その組み合わせの妙から素材として取り上げたのかなあ。



中盤までが戯画調だったのに対し、後半は、医療事故問題を巡る、病院・市役所・警察などの関係者の様々な思惑が入り乱れ、サスペンス調に。
2010年映画化(東宝)
2009(平成21)年・第6回「本屋大賞」の大賞(1位)受賞作で、単行本デビュー作での大賞受賞は同賞では初めて(他に、「週刊文春」2008年度ミステリーベスト10で第1位)。



これを読み、マーチン・スコセッシ監督の「アフター・アワーズ」('85年/米)という、若いサラリーマンが、ふとしたことから大都会ニューヨークで悪夢のような奇妙な一夜を体験するという、巻き込まれ型ブラック・コメディの傑作を思い出しました(スコセッシが大学生の書いた脚本を映画化したという)。 










『
「僕の出会った有名人」というタイトルでの4回の中の1つに吉行淳之介のことが書かれていて(吉行淳之介は著者が文芸誌の新人賞をとった時の選考委員)、「我々若手・下ッ端の作家にとってはかなり畏れおおい人」、「吉行さんのそばにいる時は僕は自分からほとんど何もしゃべらないようにしている」と。でも、しっかりその立ち振る舞いを観察して感心しています(後にプリンストン大学で吉行の中篇を素材とした講義をしている)。
ポスター 
平安末期、侍(森雅之)が妻(京まち子)を伴っての旅の途中で、多襄丸という盗賊(三船敏郎)とすれ違うが、妻に惹かれた盗賊は、藪の中に財宝があると言って侍を誘い込み、不意に組みついて侍を木に縄で縛りつけ、その目の前で女を手込めにする。
1922(大正11)年1月に雑誌「新潮」に発表の芥川龍之介の短編小説「藪の中」が実質的な原作で、1915(大正4)年発表の「羅生門」は、映画では、冒頭の背景など、題材として一部が使われているだけです。
そして最後に、侍の霊が巫女の口を借りて、妻が盗人を唆して自分を殺させたと―。
その証言がまた、それまでの3人の証言と異なる(それらをごちゃ混ぜにした感じもあるが、とにかく女性が強くなっている)という大胆な設定で、杣売の語ったのが真実だとすれば、黒澤明はこの作品に、現代的だが相当キツイ「解」を与えたことになるなあと思います(その重いムードを救うような、原作には無いラストが用意されてはいるが)。


ACTミニシアターのチラシ http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20070519/p1 大山昇子氏「女おいどん日記」より
「赤西蠣太 [VHS]」 

江戸の伊達家の大名屋敷に着任した赤西蠣太は、風采が上がらず胃弱のお人好し侍だが、実は彼は、江戸にいる伊達兵部と原田甲斐による藩転覆の陰謀の証拠を掴むという密命を帯びて送られてきた間者(スパイ)であり、彼の目的は、同じく間者として送り込まれていた青鮫鱒次郎と集めた様々な証拠を、無事に国許へ持ち帰ることだった。江戸藩邸を出奔する理由として蠣太らは、蠣太が邸内随一の美人である小波に落とし文をして袖にされ、面目を保てなくなったというストーリーを練る―。
角川文庫、新潮文庫、ちくま文庫などに収められいる原作は20ページほどの小品ですが、それが1時間半近い作品になっているわけで、蠣太と隣人との武士の迷い猫の押し付け合いや、なかなかラブレターがうまく書けない蠣太の様子などのユーモラスなリフレインを入れて多少は時間を稼いでいるものの(それらも赤西蠣太の人柄を表すうえで無駄な付け加えという風には感じない)、概ね原作に忠実に作られていると見てよく、ある意味、志賀直哉の文体が、如何に簡潔で圧縮度が高いものであるかを示していることにもなっているように思えました。
しかし、この映画の白眉とも言える最大の"遊び"は、謀反の黒幕である原田甲斐(山本周五郎の『樅の木は残った』ではこの人物に新解釈を加えているが、この作品では型通りの「悪役」として描かれている)、つまり主人公にとってのある種「敵役」を演じているのもまた片岡千恵蔵その人であるということです。
原作は、伊達騒動の経緯自体は僅か1行半で済ましていますが、映画では、当時から見ても更に時代の旧い無声映画(チャンバラ活劇)のコマ落とし的描写で早送りしていて、伊達騒動自体は周知のこととして細かく触れていないという点でも原作に忠実です。
[旧版] 
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1860年(エジソンが電球を発明する19年前)の暮れに、「ファラデーの法則」で有名なマイケル・ファラデー(1791‐1867)が、少年少女のために行なったクリスマス講義6講を纏めたもので、この時ファラデーは70歳だったとのことですが、子供たちに科学へ関心抱いて欲しいという思いが伝わってくる生き生きとした話しぶりには、自らを「青年」と呼ぶに相応しいみずみずしさが感じられます。
少年少女達の目の前で自ら(時に助手を使いながら)実験し、それに基づいて解説しているので、当時のファラデーの話を聴いた子供達は、かなり引き込まれたのではないでしょうか。




本書の特徴的な点は、類書が、被害者遺族の感情については事件ごとの付随的な記述に止まる傾向がある中で、第2章「かえらぬ命」で、被害者遺族を綿密に取材し、その声を数多く集めていることでしょう。



J. O'Donnell
ジョー・オダネル(1922‐2007/享年85)は、ホワイトハウスのカメラマンとして、トルーマンからジョンソンまで4代にわたる大統領の元で写真を撮影し、暗殺されたケネディの棺の前でケネディ・ジュニアが敬礼する写真は世界中に配信されました。
ジェニファー・オルドリッチの聞き書きを読むと、オダネルは、最初から従軍カメラマンとして赴任したのではなく、海兵隊に配属になってから「撮影」という任務を与えられたようです。